New Face : 田中邦明くん

野生の虎を上書きする日本式テンプレ人格

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満を持して、田中くんがワーホリでやってきました。
「満を持して」というのは、来るまでが長かったから。なんせ下見で一回オーストラリアに来られてます(2016年09月)。また僕が帰省したときの京都オフにも参加、一緒に鞍馬温泉に行きました(17年08月)。

鞍馬温泉オフの最後の京都駅にて

それから中途であれこれメールやらスカイプやらメッセやらのやりとりをしつつ、色々考えて~、迷って~、悩んで~、結局来たのは19年の4月であるという。この逡巡の長さがシェア探し終盤でも祟るのですが、後述します。

田中くんは鳥取出身で、最後の勤務も地元鳥取です(地元のバス会社で営業から何からいろいろやっていた)。大学は建築科で、最初の仕事は福岡で建築積算を。

日本でもしっかり仕事を、それも地元の人に喜ばれる地元の固い仕事をしつつも、なぜにワーホリを?という点は、これを読んでいるだろう多くの読者(過去に同じように海外に行ったとか、行ってないけど興味アリとかの人々)には、さほど疑問ではないでしょう。行きたいんだからしょうがないよねって、それでわかるでしょう。

来るまでに足掛け4年くらいやりとりしてるので、僕もなんとなく分かるような気でいたのですが、一括パックを一緒にやってるなかで、また修正されました。

田中くんは温厚で礼儀正しい青年であり、おそらくは年長者からも好かれていたでしょう。ただその分おとなしすぎるというか、野生の虎がガオ~と吠えるような部分は少ない。どちらかといえば、くよくよ悩んでしまうタイプで、それが自分でも歯がゆい。もっとパキパキ強くなりたくて海外修業を思いたった、、、のだと思ってました、僕は。いや彼自身の説明もそうなんですけど。

でもね、こちらで気づいたのは、ああ、田中Aと田中Bがいるわけね、二重人格ってわけではないけど、素の人格と、日本テンプレ仕様のペルソナの2つがあるんじゃないかって気がしてきました。

そう思ったのは最初の空港出迎えの時点です。荷物が異様に少なかったからです。僕の造語ですけど「荷物の大きさ=不安の大きさ」で、不安が大きいほど荷物が大きくなる。これまでのイメージであれこれ思い悩む田中君だったらさぞかし荷物も多いだろうと思いきや、「え、これだけ?」と近年稀にみる、というか歴代でもかなり少ない方です。

で、来る前にもあれこれやりとりしてて、「あれ?」と思ったことがあります。すごい思い悩んでいるんだけど、実は全然考えないんじゃないか?という。ワーホリにするか留学にするかでも足掛け何年も考えているんだから、学生ビザは現地で取れるけど、ワーホリは日本(オーストラリア国外)でないと取れないというド基礎くらい知ってそうなんだけど、全然知らない。昨日今日思い立ったら知らなくても普通だけど、もう何年も考えているわけですよ。でも具体的な段取りについては不思議なくらい無頓着なんですよね。

そこでわかった(ような気がする)のは、田中くんって素の人格(田中A)は、実は豪放磊落というか、「細かいこたあどうでもええわ、なんとかなるわい、ガハハ」って感じの、それが素じゃないかなーと。だから異様に考え込んで悩みすぎるくらい悩むんだけど、実務的な細かなことは全然調べないし、気にもしていない。基本なんとかなると思ってる。荷物もしかりで、困ったら現地で買えばいいんだろって。

ところがA人格を上書きするB人格があり、これが普段はドミネート(支配)している。このB人格をなんと表現したらいいのか迷ってたんだけど、「日本型テンプレ人格」と命名しました。テンプレというのは、田中くんが前にやっていたブログでも意見を求められたんですけど、ま、いわゆるひとつの普通のブログで、よくあるパターンです。ほんとテンプレどおりというか。
そういえば、彼のブログはちょっと違うんだけど、一番よく見かけるのが、最初にまとめみたいな小見出しリンクが張ってあって、最後のシメのところは、必ず「いかがでしたか?」というフレーズが判で押したように入っている。誰が作ったテンプレなんだろ?

田中ブログも形は違うけど、実質的にはテンプレで、書いてる内容も「ほんとにそう思ってるの?」「そういうことが言いたいの?」と疑問になるような感じ。実際にも友達から「つまらん」とか言われてたらしく、お悩みでした。だから、もっと自由にやればいいじゃん。「こんなこと書いていいのか?」とドキドキするようなことばっか書けばいいじゃん。別に先生に提出するわけでもないしって僕も言ったもんです。

そのテンプレ感が、ブログに限らず、世界観や行動などに広がっているんじゃないか。日本の世間ではこうする、これが一番正しい(波風も立たず、炎上もせず、誰の感情も害さず、八方丸くおさまる)というテンプレートがあって、育ってくる過程で、真面目な田中くんはそれを漢字練習帳のように地道にやって、それがもう習い性になっているのではないか。

んでも、地が田中豪快Aなので、もともとそういうのは向いてない。そういう人じゃないんだから。オーストラリアだ、ワーホリだとかいうのも、「弱い自分が修業して強くなるストーリー」と田中Bは理解してるのだけど、素の田中Aにすれば、もともとの自分に濡れた半紙のようにぺったり貼り付いているテンプレ・ペルソナが鬱陶しいから剥がしたいんじゃないか?

この点は本人にも何度も言いました。もう空港に出迎えて10分くらいで「ははあ」と思ったので言ってました。あなた自分で思ってるような人じゃないよ、もっと剛毅な人だよ、ほんとの自分=「豪快君」に任せなさいな、と。

テンプレくんは、テンプレをやらせると上手なんだろうけど、テンプレのない世界になるともう何をしていいのか分からん。で、面白い(といっては不謹慎かな)のは、豪快くんは豪快だから、そういう実務段取りはぜーんぜん考えないのね。そうなると、テンプレ以外のことを直感一発でうおりゃ!ってやろうとするときのマネージャーがいない。テンプレくんは想定外の無テンプレ世界だから右往左往して頭が真っ白になるだけだし、豪快くんはそこらへんチマチマやる気はないし。

まだ着いたばかりの頃。なんか緊張しすぎて目が座ってる的な。

Burwoodの駅で、むりやり弾けていただきました(笑)

お昼ご飯はベトナム料理のPHOと、あと東南アジア定番のLaksa

それが端的に出てたのがシェア探しだと思います。
とにかく沢山見たらいいよーというアドバイスどおり、沢山見てます。もう40-50件くらい見ている。初日からガンガン飛ばす。そういう実行能力はすごいあるのですよ。また意外というか、口ではあれこれ気弱なことを言うくせに、行動においてはまったく物怖じもしてない。シェア見学でもけっこうオーナーとお話したり、デポジット置いて止めてもらうように交渉したり、バッパーでもすぐ慣れてるし、友達もできてるし、なんのアドバイスもしなくてもとっととやることはやっている。かなりのものです。

だから「弱い」とかそういう要素は実は全然ないんじゃなかろか?
ただただ「わからない」だけじゃないか?
どうしたらいいのか分からないから困る、真っ白になる。豪快くんを実務面で生かしていくマネージャーがおらんのだから、それは仕方のないことなんだろうけど、ともあれ現象面でいえば、豪快くんはなんとかなるべと思って、寝そべって大あくびをしてるような感じで意見ナシだし、テンプレくんはひたすら真っ白になるだけだという。

さすがにシェア探しも3週目に突入!くらいになってきたら、ははあ、決めるということが出来ないのね、飛ぶのは実は問題ないけど、着地ができないのねーというのが見えてきました。

本人は「優柔不断」という理解なんだけど、ただの優柔不断ではないですよね。方法論なりマネジメントが未開発で、物事を実行させていくノウハウが無いだけだと。優柔不断というと、心理的・精神的な要素が強そうだけど、僕が思うにそこは問題なくて、ただ技術の問題だろう。テンプレどおりやってた人が、テンプレ離れてやるときのやり方を知らないだけだと。

だから、それを体得するのが、彼の一年目の課題なんじゃないかと思ったのでした。
ちなみにテンプレ型方法論というのは、塗り絵みたいなもので、指示書にしたがって忠実に実行すればいい。全体の30%完成って段階においては、白紙の塗り絵の30%部分が着色されていて、その30%に関してはほぼ完成している。つまりミスなり試行錯誤という余地がない。完成部分を増やしていくだけ。

ところが非テンプレの世界(てかこっちが普通なんだけど)では、とにかく荒削りでもいいから一回全部おおまかに作ってみて、出来栄えをみて、「だー!違う」となるから、そこで部分的に削ったり、あるいは全部やりなおしたりする。その繰り返しのなかで徐々に練り上げられていく。日本刀の鍛冶みたいに、ガンガン!叩いて、ジューッ!水に入れて、またガンガン叩いてってダイナミックな生成過程を何度も繰り返す。最初から百点なんか全然考えてない。次の課題をみつけるためにとりあえずやって、まず失敗してみる、失敗すると次に進める。だからいちいちそれを失敗だともなんとも思わない。もう全然方法論が違う。

そこらへんの相談をしつつ、僕もたまたま時間があったのでイースタンサバーブめぐりをしたとき。朝のクージービーチ

だんだん終盤になるにつれて、腑に落ちてきはじめたのか、「失敗したっていいんですよね」「また探せばいいだけのことだし」って自分で確認するように何度も言っておられたのが印象的です。

しかし、思ったのは、最近の日本はこれでいいのか?論というか、良すぎて良くないというか、これだけ野生の虎のような田中くんをして、借りてきた猫ならぬ、テンプレしか出来ない猫に変えさせてしまって、本人まで洗脳してるんですからね。

僕らみたいな昭和中期、しかも僕のようにバブルが弾けた頃にはもう居なくなって平成日本の影響をほとんど受けていない原始人みたいな日本人の感覚で言えば、人生とか生活は破綻ばっかりだったんですよー。「あしたのジョー」のリアルタイム世代は、あれがロールモデルで、少年院くらい行って一人前というか、ヤンキーとか暴走族とか出てくるもっと前の、ナチュラルに誰もが粗暴だった時代です。体罰もクソも殴られるのなんか当たり前だったし。
それが良いとは言わないけど、ただテンプレはなかったんですよね。あったとしても矢吹丈とかそういうテンプレで、「お勉強ができる」なんてのは全然自慢にならないというか、むしろ男子の恥というか。
テンプレの萌芽は80年台中期以降、やたら「管理」なんたらって言葉が出てきた頃からだと思う。逆に言えば成長が鈍化してきてからかな。高度成長の頃は、どんどん成長するから、テンプレ作れないんですよね。昨日のテンプレは明日にはもう時代遅れだし、使えないし、必要もない。

それが豊かに満たされてなにもかもがキッチリ管理されてるかのようになって、ゼロから加点していくというよりは、渡された塗り絵をいかにはみ出さずに塗るか、ミスった分だけ減点方式とかになると、テンプレ命みたいになっても不思議ではないです。

それはそれでリアルタイムの日本をサバイブする最適解なんかもしれないけど、ただ本人のもともとの個性との葛藤は出てきますよね。うまいこと融合させていく人もいるだろうけど、なんか噛み合わない人もいるでしょう。

それに平成がパッとしないまま、失われ続けてそんで終わりってのも、なんかすごーく基本的なことを忘れてるんじゃない?って気もします。簡単なことで、すべての創造は破壊を伴うってことです。破壊なくして創造なしだし、破壊を怖がっていたら何もできんよって、くっそ当たり前のことなんだけど、昔は誰もがそんなこと普通に理解してたんだけど、それが生理感覚から抜けてきてるんじゃない?って気がします。これはエッセイで書くべきお題なのでこの程度で。

田中くんの一括パックの間、以前来られた松尾くんが、イースターのバイト(オリンピックパークでドーナツ作ってたらしい)の合間に遊びにきてくれました。これから北に旅してそのまま帰国するのでご挨拶を、と。でも、松尾くんも変わったですよね。
最初会った時(去年の名古屋オフのとき)は、物静かで礼儀正しく、長身痩躯、いかにもエリート理系の眼鏡男子って感じだったんですけど、こっちにいる間にどんどんもとの楽しい個性が出てきて、「地元の居酒屋に行くといつも居る陽気で気さくなお兄さん」みたいになってました。会う度に「ああ、そういう人だったのか」という。

ということで、悶々たる暗いトンネルのような逡巡遍歴を経て、最後に田中くんが決めたシェア先は、Summer Hillの実にファンキーなお兄さんとの二人暮らしでした。ここ、もしかして前に井口くんがいったところかな?

でも、下の写真を見てもおわかりのように、やっぱこういうのが向いてるんですよ、田中くんには。

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