三谷和葉さん、廣瀬蓮くん来訪

荒れ狂う暴風雨的偶然を通過してお子さんと永住権をゲットした和葉さん。就活前にあれこれ考えている廣瀬くん。

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この日はよくあるジョイントデー(別々の訪問客を同時刻に設定し、僕とも喋るけど、人とも出会えるという)。

三谷和葉(かずは)さんは、1歳未満のお子さんをつれて登場、先日めでたく永住権が取れて、さてこれからという話。
廣瀬くんは、WHを終えて帰国目前。ラウンドから帰ってきたところ。

和葉さんの場合

まず和葉さんですが、子宝には恵まれるわ、永住権は取れるわでめでたい二連発なのですが、そういった人生史的イベントでさえも「偉大なる日常の力」は「普通の日常」に変えていきつつある、、、というさなか。

いや~、ワーホリできて、ラウンドやって何事かを悟り(体験談参照)、その後学生ビザに切り替えて、勉強にバイトに頑張ってるうちに彼と知り合い現在に至るという、振り返ってみればか~なりトントン拍子ですよね。学生ビザだって語学学校の段階(かなり長めにしてけど)で済んでいるし、出産だってOSHC(強制加入の海外留学生保険)でカバーしてるんじゃないの?というくらい。
でも、そんなことは過ぎたからこそ言えることであり、馬鹿でも言える(馬鹿しか言わない)結果論であり、やってる最中は一寸先は闇状態。

だいたい配偶者ビザも、(国民or永住者)一人あたり二人までとなっているのに、和葉さんの場合は3人目。お子さんが生まれるってことで、移民局もそこまで血も涙もない杓子定規なことはしないだろう、しないでほしいなー、頼むからしないでくれ~という「藁をもすがる楽観論」に基づいての申請でしたもんね。「は?2人までしかダメって書いてあるだろうが、ちゃんと読まんかい、ぼけえ!」であっさり却下されても仕方がない、てか普通そうなるよなーってところからのチャレンジですもん。完全ダメ元で、当然に予定される「ダメだった場合」のこともさんざん考えていたはずです。
ところが蓋をあけてみれば、呼び出しもなく、追加書類のなんたらという煩瑣な手続きもなく、あれ?取れちゃった、、、という。

世の中そんなもんですよね。「そんなもん」というのは「案ずるより産むが易し」的なことではなく、「なにがどうなるか全然わからん」ということです。逆に100%完全大丈夫なハズがなぜかダメだったということも余裕でアリでしょう。この巨大暴風雨のように「荒ぶる現実」があるから、生きていくのは大変なのよね。そこをまるっぽ考えない結果論は、ゆえに馬鹿の証拠のように扱われる。

でも思うのですけど、人生という悍馬(暴れ馬)がいて、それを何とか自分なりに乗りこなしている人というのは、この「暴風雨」圏内を必ずといっていいくらい通過しているし、それで難破することもあれば、その力によって一気に推進力を得て目的を達成することもある。いずれにせよ、乗りこなしているGoing My Wayな奴というのは、暴風雨(現実の凄まじいまでの偶然性)を恐れないです。いや恐れたりビビったりするけど、でも突入するよね。リスク回避とかいってビビってるだけだったらいける距離はしれてるし、結局対岸にたどり着けないで終わる。虎穴に入らずんば虎子を得ずというのはそういうことだし、結果保障がないと動けませんとか言うなら、その時点でもう終わってるとも言える。

さて暴風雨生還の和葉さんですが、永住権が取れて嬉しかったのはその日だけで、翌日になるといつもと同じ日常が。これは誰でもいうし、直近では小平さんとも話したっけ、そうなのよね、永住権取れてから気づくのだけど、1ミリも現実世界は変わらない。まあ取れないといつかは出国しないとダメという「余命何日」人生なので、そこが変わるのは巨大なことなんだけど、でもキッチンの窓から見える風景はいつもと変わらん。取れたからと言って身の丈3メートルになるわけでも、髪の毛が金色に輝くわけでもないし、レントが安くなるわけでもない。相変わらずの日常で、ほんと実感としては何も変わらんやんって感じなんですよね。

ということでミラクルな喜びも、大いなる日常に塗り替えられ、次は家賃や家計をどうするとか仕事どうしようかなという普通の悩みがトップに出てくる。話していたのですけど、アレですよね、落語の高座みたいに、最初の噺家がやってるときは演題の「永住権」というテーマになってて、それが終わると二人目が出てきて「家計問題」というテーマに速やかに移動し、それが終わると3人目、4人目と出てきて、結局、常に何かに悩んでいることに変わりはないのですよね。

さて、そんな中で、着々と準備してるのは、薬剤師のキャリア(日本もそうだが、こちらでも携わることがあるし、第一オージーのダンナさんが現職バリバリの薬剤師)を生かして、なんか起業したいなってことで。前からいろいろブログを作るんだとかいってて、作って、忙しくなったのでまた消して、また作ってとかやっておられます。

よくこちらに来られる方で相談を受けるのですが、持病があって、主治医から定期的に薬を貰っている、渡豪してもその薬は現地で手に入るのか、ものすごく高額とかそういうことはないのか?と。現在も一人そういう方がおられたので、こういうBusinessやってるひとがいるよって和葉さんを紹介しました。

実際ニーズはあると思うし、それを解消するのは、日本とオーストラリアの医薬事情に精通してるプロフェッショナルな知識なわけだし、それを持ってるんだから活用したらええやんと。ネットでも薬のことはわかるけど、それって「一般解」でしょ。大事のは自分にとってどうかという「特殊解」です。ほかに持病があるとか、既往歴とか、現在の環境とか、アレルギーとか、他の服用との配合禁忌であるとか、非常にレアなんだけどなんか副作用らしきものはないかとか、もちろんプロの薬剤師だって完璧にはわからんだろうけど、プロならではの「あたり」はつくかもしれないですよね。よくある話だとか。これはなにか専門技術を持ってる人ならおわかりでしょうけど。

ただ、それでメシが食えるとか、起業として成り立つかというと絶対ボリュームとか、単価とかいろいろあるから難しいかしらんけど、あんまり先々まで考えすぎず、とりあえず出来ることをやるのが良いかと。起業などでは、儲かるシステムが最初から全部見えてる場合なんかマレですし、見えてる場合は既に確立しているビジネスモデルを後追いでやるような場合でしょう。

僕も思うのですけどね、なんか起業して、10万とか100万とか「はした金」(マジに生活すること考えたら年で数百万いかないとママゴトと言われてもしょうがないでしょ)稼ぐことよりも、自分で納得できることをやって、誰かいい友達とか知り合えるんだったら、そっちの方がデカいと思いますよ。金は使ったらそれきりだが、人は使っても減らんし。だから和葉さんと僕も今こうしてお話したりできるわけだし。

個人がやる場合、それが趣味なのか、起業なのか、ボランティアなのかかなり曖昧だし、むしろそういうカテゴリーが無意味だと思います。最近のエッセイでいえば、そんな「記号」に支配されてはいけないと思います。

その後、レントの話とかで盛り上がったのでした。オーストラリアの不動産もやっとこさ目に見えて下がってきたし、レントもちょい下がってきてますし。ただ、それはそれで27年続いたオーストラリアの好景気の終焉かとか、実際にも建築会社とか潰れはじめてきてるし。ま、それはそれとして、あのへん幾らくらいすんの?とかいう、普通の地元民雑談になったのでした。


廣瀬くんの場合

さて、廣瀬くんですが、ラウンドはほんと楽しかったみたいで、SAのファームでほんとよくしてもらったみたいです。やあ、ラウンド、良かったでしょう?うん、みんなそう言うよね。
会った翌日、廣瀬くんがそのファームで生産しているサイダー(リンゴとナシ)をどーんと送ってくれました。

どーんの図

味の方は、市販の砂糖たっぷりのものに比べると、最初はとっつき悪いのだけど、慣れるといかにも自然の味で、美味しいです。

んでも話は、「お年頃」ということで、帰国してからの就活の件をしてました。まあ、いつも言うような話で、書き出すとまた長くなるのだよね。

同じこと繰り返して書くのは僕がつまらないから、その時に喋ったことをさらに敷衍して書きます。

まず思うのは、「こうしなきゃダメ」ということは一つもない、ということでしょうか。
なにやら解法が一つしかなく、ゴールも一つしかなく、そこに向けて皆で競争をするんだみたいな徒競走みたいな図式やパースペクティブって「おなじみ」だから、そう思いがちだけど、まずはそこから解放されるといいよ、と。

とりあえず、これって「競争」じゃないんだという点。これはAPLaC生だったらわかるけど、シェア探しって競争じゃなかったでしょ?1年弱やったワーホリだって競争じゃなかったでしょ?全然違うでしょ。自分にとって納得できるものという、「自分にとって」というパーソナルな要素が入った瞬間に、もうそれは競争ではない。競争になりえない。

だって競争というのは誰にとっても価値があるものを奪い合うから始まるのだもん。無理やりシンプルに方程式化すれば、獲得価値を共通する人数(欲しい人の数)>価値の保有予定者数(そのものの数)のときに競争という契機が生じるね。でも、パーソナルを推し進めていくほどに、その価値を共通する人なんか生じないです。せいぜい夫婦くらいかな、それも怪しいかな。
だもんで他人と比べてどうとかいうのは、超ナンセンスで、昨晩見た夢を他人と比べているくらい無意味なこと。でも比べたくなるんだけど、だからそれはパーソナル価値に鋭敏ではないからでしょ。自分にとって何がいいかということをマジに考えてないからっしょ。

でね、自分にとって価値があるものって、なあに?というと、これが実は謎なんだよね(笑)。てか、そもそもゴールが何なのかわからんし、ゴールなんてものがあるのかどうかすらわからんよね実際。あるいは、こうも言える。自分の取って価値があるものというのは、この世の全てがそうであると。どんな体験もどんな知識も、何らかの形で役に立たせることは出来る。

というわけで、突き放すような言い方だけど、非常に「手がかり」がない。こうすれば良い、というのがない。良いかどうかは自分で決めろと。

んでも、ある程度この世間をワガママにやっていこうと思うなら、それなりのスキルもパワーも必要で、何すりゃいいのかわからんなら、RPGと同じで「そうび」を充実させていくのも手です。コレを持ってると何かと有利的な。ただ、それが有利な事例というのは、実はそんなに多くはなく、時にはそういうこともある程度。だから万能薬ではない。そのかわり、そのそうびはいくつもある。
それらは断片に過ぎないんだけど、断片だとわかってゲットできるときにゲットしておくのも、またアリです。

あー、抽象的でわからんか。
たとえば「そうび」の中で、「英語ができる」というのもあるよね。なにかと有利なんだけど、でも、そう毎日毎日有利なわけではない。もしかしたら一生それを実感することないで終わってしまう人生もありうる。そうびなんてそんなもの。

あるいは、誰でも知ってる有名大学を出ているとか、有名企業で働いたとかいのは、とりあえずの魔除けというか馬鹿よけになるし、名刺代わりになる。なんか起業やNPOをつくって飛び込みで話を聞いてもらおうとしても、東大出てますとか、もとメリルリンチですとかいうと、まんざら馬鹿が世迷い言を喋ってるわけでもないのだなと聞いてくれる「かも」しれない、そういこともある「かも」しれない。また麗々しい肩書がないと人を虫けらのように扱う馬鹿対策にもなる。でも、まあ、馬鹿よけといっても蚊帳みたいな効能でしかないし、本当に話の通じるひとは最初からそういう形で人を見ないから、あんまり意味ないといえば意味ない。まあ、「そうび」なんてそんなもの。

ほかにも「そうび」は山程あって、ざっと考えても数十という単位であるでしょ。いろんな業界の内情を知ることやら、世間のオモテとウラを舞台裏から見るとか。

いわゆる平均的な日本人が平均的に思い浮かべる平均的なライフスタイルって「こんなもん」というのを実地で体験することで、その後のマーケティングやら、一般的な他人への説得技法に活用できるわけで重宝する素材ですよね。平均的なサラリーマンって、この程度に真面目で、この程度にいい加減で、この程度にプライドがあって、この程度に下品であるとかいうのは、現場にいて皮膚感覚で覚えるしかない。でないと、他人に通じる言葉選びができなくなりますし。

だからどこで何をやっても、それなりに役に立つし、「そうび」は身につくと思います。だからなんでもいいちゃなんでもいいんですよね。

でも、一度に全ては身につきません。多分一生かかってもほんの一部しか身につかないでしょうねー。だから一回の就職に全てを期待するのはアホであって、それは普通の将棋で1手で勝つんだというくらいアホ。まずはここから攻めていってという段取りや順番があるんだろうけど、その順番で考えればいい。もっとも、ある程度ひととおりのバラエティは必要なので、遅かれ早かれ全部やらなきゃいけないんだけどね。

その段取りを考える場合、パズルみたいなもので、Aを先にやってしまうとあとからBはできなくなるとか、Cを先に入れてしまうとDが入らなくなるとかいう客観的な条件があります。

と同時に、もっと大事なのは自分のメンタルで、理屈の上では全部やらなきゃ、しょせんは順番の問題だとわかっていても、Aから始めてしまうと途中で心でスサんでしまいそうとか、朱に交って赤になりそうとか。いいときもあれば悪いときもあり、もっぱら成長するのは逆境時ですですけど、だからといってしょっぱなから逆境百連発みたいなスケジュールにしちゃうと途中で潰れるでしょ。かといって最初に甘やかしてると、あとでヘタレになるし。

だから、ほんと就職先選びは、シェア探しと同じだと思います。てか、「この世界に個人が接触し、絡んでいくこと」というのは、なべて同じことだ思う。

それは暴風雨のような偶然性として荒れ狂い、ときとして悪い冗談のように人を不幸のどん底に突き落とすけど、でも同時にありえないような幸運にも導かれる。そこまで極端でもなくても、さざ波やら土用波くらいの落差は日常的にある。

だから、計画どおり~とか、不安だから~とか、なんでもかんでもコントロールしようと思うのは無理で、もともと現実というのはアンコントローラブルなもの。僕らは偶然の波に翻弄される小舟のようなもの。

ならば偶然を支配しようとはせず、むしろ偶然とたわむれ遊ぶこと、飼っている大きな犬と抱き合って芝生をゴロゴロやるようにしてればいいんじゃない?と思います。どっちに転んでもなにがしか得るものはあるし、やってりゃそのうち「おお!」というのにも出会えるし。その繰り返し。

月形半平太だっけ、「春雨じゃ、濡れてまいろう」って名セリフがあるんですよ。聞いたことくらいあるだろうけど(僕も聞いただけだけど)。
その趣旨は、春雨だから、降ってもそれほど大したことないだろうし、それ以上に、春の雨というのもまた風流なものだから、ここはひとつ楽しむことにしようという意味でしょ。

「この世界に触れ、絡んでいくこと」=「偶然とたわむれ遊ぶこと」というのは、そういうことだと思います。ある程度大人にならないと難しいかもしれんけど、カンドコロさえ抑えたら小学生にも出来ると思いますよ。

そこをですね、「えー、雨降ってるのー?!ありえなーい!」「天気予報じゃ晴れるって言ってたのにねー」「あー、なんてついてないんだ」「私がやることはいつだってこうで、そういう人生の星のもとにいるのよ」「祟られているのよ」「呪われているのよ」と思うかどうかは、up to youです。

えー、以上の主旨を一言で乱暴に要約すると、

就活どうしたらいいですかねー?
まあ、遊んできたらええやん?って。

遊んできなはれ。

途中まで話して、近くの公園(先日オフやった場所)に移動。オフのときはふたりとも欠席だったので、遅ればせながら参加ということで。  

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