「算数の出来ない大人」と「なんとかする力」

Pocket

先日(10月15日付)の日経ビジネスの「教育劣化どこまで 社会に出て「引き算」を習う大人たち」という記事があり、けっこう衝撃的な内容でもあるので、ネットのあちこちで引用されています。

FBで単にシェアしても良かったのですが、いろいろと考えを触発される良記事なので、単なるシェア+補注レベルでは追いつかず、ここに記します。

まず記事の概要ですが、詳細はリンクをたどって読んでいただければ良いのですが、抜粋しながら感想を書きます。

最初に「大人塾」をやっているマミオンが紹介され、もとはパソコン教室だった同塾が大人塾を始めたのは2011年というから今から8年前。最初は数人程度だったけど、今では年間受講者1000人以上だそうです。

いきなり脱線しますが、ここでまず感動するのは、さすが起業家、すごい先見の明!ってことです。
今から8年前って、311の東北地震の年で、北朝鮮の金正日とビン・ラディンが死んだ年で、「なでしこジャパン」とかいってた時期で、その頃から「大人の算数問題はビジネスになる」と見抜いたわけですよね。そうかー、このくらいの感度でないとダメなんかーって、それが一番勉強になったりして。誰一人そんなことがビジネスになるとは夢にも思ってない段階で、自分だけがそれを考えているってくらいに感度やセンスを磨くことです。

で、通ってる生徒さんは、名の通った大手企業の社員さん、大卒も多い。昔からヤンキー一筋でやってた人が一念発起でやってるというよりは、昔から勉強が得意だったはずの人達。それが、記事によると

「話を聞いて驚かれる方も多いが、つい先日も大手金融機関で新入社員200人に消費税の計算をさせたところ、半数が税抜き価格に1.08を掛けることができなかった。これが日本の現実」と森社長は話す。

そこで、「日本の教育は大丈夫か?」というごく自然な問題意識になり、以下その考察が続きます。

これまで日本の教育の問題として典型的に指摘されていたのが、なんでも標準化してしまうので、天才異才が十分に力を発揮しにくい、という点です。その結果なのかどうか、学術論文も低下。引用すると
世界から注目される論文の国別シェア(占有率)で、日本が05~07年の5位(3年間の平均)から15~17年(同)は9位へと低迷、かつて「お家芸」とされた化学、材料科学、物理のシェア低下が目立つという。 

天才を凡人にしてしまうくらい平均化の圧力が強い反面、劣等生を平均値まで引き上げるという良い標準化もあり、日本人の平均知性は「粒が揃っている」(そんな思いっきりアホはいない)というのが定説でした。この点は世界トップレベルだと。

しかし、いい年して足し算や引き算を習っている大人塾の存在は、この世界観を根底からくつがえします。全然粒が揃ってないじゃんって。

日本の教育は、天才や異才だけでなく、簡単な数学的知識をはじめ「普通の人材になるための基本スキル」を国民に身に付けさせることも、実は、十分にできなくなりつつある――。
そんな仮説が正しければ、事は学術論文の数が減るどころでは済まされず、日本企業の競争力そのものにも当然、影響を及ぼす。

よく取りざたされるダボス会議の世界の競争力ランキングで、今年の日本は6位だそうです。去年よりも一つ席次を落としたのだけど、全体141カ国のなかでの話なので、ちょっとほっとしますよね。まあ、昔の僕らの世代からすれば「1位でない」というだけで屈辱モンだけど、まあ、6位でも悪くはないよ。

しかし、スイスの有力ビジネススクールIMDの「2019年版世界競争力ランキング」になると、日本はいきなり30位と酷評されているそうです。

比較可能な1997年以降では過去最低で、シンガポール(1位)、香港(2位)などの背中はほど遠く、中国(14位)やタイ(25位)、韓国(28位)をも下回った。かつて日本が1989年から4年連続で世界1位を記録していた同調査だけに、その没落がうかがえる。

ここですけど、30位とかの数値そのものは測り方によるし、意見はいくらでもあろうから別にそんなに気にはしないんだけど、過去4年連続1位だった同じランキングで30位まで落ちているというのは、これは気になりますね。

1位だったのは1989年からの4年間で、これって昭和から平成になった頃、僕が日本で弁護士やってた頃であり、世はバブル~弾けた頃です。

モデル修正?
「そうかー」と思ったのは、僕自身がリアルに体験している日本の仕事社会は丁度その頃なのです。弁護士デビューしたのが87年だし。自分の中での「日本(人)の実力」というモデル基準が、その黄金の首位時代の生記憶に基づくものです。

実際、生の記憶を蘇らせても、誰も彼もが賢かったような印象もある。だから異業種交流とかやってもめちゃ面白かったし。
もっとも、これだって、インターネットに先立つ10年前からパソコン通信をやってた連中=100人の一人レベルの感度の良い連中ばかりだったからかもしれません。日本のインターネットは1997年になっても普及率は10%に達してないけど、僕らは87年から今と同じようにネットで集まり、チャットをし、泊りがけの旅行オフもし、しまいには共同でマンションを借り、ビジネスをやり、40人以上集めて株式会社まで作ってたわけで、たしかに初期メンバーになればなるほど面白い奴が多かった。

いずれにせよ僕の中で日本人の能力をちょい買いかぶってるというか、過大評価してるところがあるのかもしれないです。モデル修正するべきじゃなんでしょうか。

でもね、モノには限度ってもんがあるでしょうが、、
って気もしますよね。

消費税の小数点の掛け算とか、大企業(それも金融機関)に入ってて分からないの?え、なんで分からないのか分からないというか、なんでそれで大企業に入れるわけ?いや、ほんと、世界観が崩壊しそうな。

さて記事ですが、くだんのIMDというビジネススクール(30位査定をしたところ)のご託宣によると、日本の場合、インフラ設備は結構いい線いってんだけど、政府とビジネスの効率性が悪い。言ってしまえば、人の動き方がドン臭いってことでしょう。動き方がドン臭いなのは何故かといえば、人そのものがドン臭いからもしれず、だから人材開発をしなければならないと(”Work-style reform and human resources development”)。

この記事の面白いのはさらに掘り下げて、じゃあどういう人材だったらいいの?どこを補強すればいいの?で、ヒントとして援用されているのが、

経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査PISA(ピサ)の成人版PIAAC(ピアック)だ。16歳から65歳の成人で24カ国・地域に居住する約15万7000人を対象にした最新の調査から導き出せる「日本が強化する余地のある人材」は次の3つ、 1.仕事に最低限必要な「読解力」 2「数的思考力」 3「IT活用力」

なんでそういう指摘になるかというと、

日本人の現役世代の27.7%は「日本語の読解力の習熟度がレベル2以下」に状況にあり、例えば「図書館の図書目録を指示通りに検索し、指定された書名の著者を検索できない」可能性が高い
数的思考力でも36.3%がやはり「習熟度レベル2以下」で、例えば「立体図を見ながら、その立体を分解すればどんな平面図になるか想像できない」恐れが強い。
さらに、ITを活用した問題解決能力でも53.6%が「習熟度レベル2以下」で、「届いた電子メールの文面から必要な情報を読み取り、会議室予約を代行することが難しい」可能性がある。

もちろん皆がそうだと言ってるわけではなく、そういう人もいるよね、どのくらいいるかといえば、27%なり、36%なりがそうだと。24カ国の大人16万人を調査して分析すると、そういうことになると。

でも朗報もあって、
国際比較をすると日本の状況はさして悪くはない。例えば「読解力」で言えば、確かに10人に3人は習熟度は低いかもしれないが、平均点は296点とOECD平均(273点)を大きく上回り1位。つまり、日本も褒められたものではないが、他の国にはもっと母国語の読解力の低い人がたくさんいる。これをもってして「PIAACの結果は逆に日本の教育の質が高いことを示す証拠」との見方もある。

まあ、悪くないじゃないかってことですけど、これも落とし穴があって、ほかの国は大体多民族国家なので、相当数の人達が第二、第三言語として「読解力」を判断されているわけですよ。オーストラリアにいたら当然「英語の読解力」になるわけで、そりゃ母国語に比べれば読解力は落ちる。それもひっくるめての査定であるなら、いくら日本に外国人が増えたといっても全然前提が違う。だからぬか喜びしてる場合じゃないと、専門家ほどシビアに思うようです。

ということで、記事の要諦は、昔からの教育の基本、寺小屋でやってた「読み書き・そろばん」、英語でいえば、リテラシー(言語操作能力)、ニューメラシー(数字操作能力)、です。そのあたりが、結構ヤバいんじゃないか。

企業の競争力を下げているのは、天才や異才の不足というより「企業の現場で、上司の指示を理解し効率よく正確に作業を遂行する普通の人材」の不足である可能性が見えてきた

「これ、やっといて」「お願いね~」って頼んでもやらない、やれない、サボってるわけではなくても、でも出来ないって人が一定比率で普通にいるんだったら、確かにこれは厳しいかもしれないです。

僕自身はそんなに日本に帰らないし、25-6年こっちに居る期間、トータルでの帰省期間を合算しても半年にもならないので、そんなにライブで「え?なんでわからんの?」という体験は無いのですが、他の人達から漏れ伝え聞く話では、カウンターでもカスタマーサポートでも「それって、オーストラリアでの話?」って混乱するようなダメダメな話、それもJALとか都市銀行とか一流と呼ばれるところですら「あのさ、自分で何言ってるのかわかってんの?」ってキレたくなる話は聴きます。それも結構たくさん。

具体的には、さっき自分が言った説明と全然違うことを言っているんだけど、それに対する釈明もなにもないで平然としているとか、平気でごまかそうとするとか、「いきなりこんなこと言われたら戸惑うだろうな」と相手に対する最低限の配慮もないとか、聞かれていることに全然答えてないとか、「そうしていただかないと困ります」とか自分の都合しか言わないとか、会話が噛み合わないとか、「ねえ、脳味噌ついてんの?」っていいたくなるような感じです。まあ、国会答弁とか見てても同じ感じなので、もしかして日本では今それが流行ってんの?って気もします。

でも、自分ではリアルに体験してないので、まあ、いろんな人がいるからねーとか、話盛ってるんじゃないの?みたいに曖昧にしてたんですけど、そうかー、やっぱ認識改めた方がいいのかもしれんなー。
まあ、普通にしっかりしてるは相変わらず大丈夫なんだと思いますよ。でも、「え?」って人もいて、その頻度が段々上がってきてるって感じでしょうかね。

 

大人塾って流行ってるの?

ほんでもって、この記事で書かれていた大人教室ですけど、すごく例外的な事象を針小棒大に捉えたのか、それとも全国的に普遍な現象なのか?
一般にはどんだけ流行ってるの?と「大人の算数教室」でGoogle検索かけたところ、

めっちゃあるし!


うーん、これだけボンボコ出てこられたら、非常に例外的な事象とはいいにくいですね。ハッキリ言って流行ってるレベルの現象なのかも。

ただね(長くて悪いのだが)、もう一ヒネリ考えられる可能性もあるのですよ。

180度異なる捉え方
~まったく違う考え方もあるのではないか?

仮説としては、実は昔からこんなもんだった(or 昔の方がもっと馬鹿だった)という説です。大した根拠もないけど(笑)。

でもさ、普通に考えて、
昔に比べたら大学進学率とかめちゃくちゃ増えてるんだよー、
塾に通う人だってはるかに増えてるんだよー、
昭和中期なんかちょっと勉強してるだけ or 単にメガネかけてるだけで「ガリ勉」とか言われて、「正しい少年」のあり方は野球だの喧嘩だのそのあたりですよ。どんなに考えてもそんな賢かったような気がしない。

でね、もしかして昔はもっと馬鹿だったかもしれないという仮説に立つならば、なぜ昔は大人教室がなかったのか?ですけど、いくつか説明原理はあって、

まずひとつには、「勉強が出来ないことをあんまり悪いことだとは思ってなかった(問題意識がなかった)」というのがあります。
だから、現場でアホだったとしても「そんなに気にしない」と。教師や親から、アホだの馬鹿だの叱られても、「まあ、事実認識としては正しいわな」と思うだけで、別に傷つかない。少なくとも僕はそうでしたけどね。僕に限らず友達みんな「馬鹿歴」長いし、慣れっこですよね。勉強が出来ることってそんなにカッコいいことじゃなかったし。

では、なぜそれで実務が廻っていたのか?でいえば、これは簡単、「わからないけどなんとかする力」はあるんですよ。
馬鹿は馬鹿なりにメソッドや要領があって、その場で必死こいて考えるとか、推測するとか、ノート写させてもらうとか、言い訳が上手とか、怒られ上手、叱られ上手で、潔くぶん殴られるのが上手とか。
実際の現場では、消費税の計算ができなくても、電卓叩けばいいわけだし、何が問題なの?って気もするよね。いちいち気に病んでたりはしないと。

その意味でいえば、大人塾がさかんなのは、今の大人というのは、僕ら(もっと上の連中)からすれば、ナイーブだなー、真面目だなあ、そんなこと気にするんだー?自腹切ってまで夜に塾通いして、すごいなあって思います。
あ、そういえば、塾にいこうって発想は俺には無いわ。塾少なかったし、予備校なんてまだなかったし。困ったら基本独学。

だから、こんなにアホどもが増えて~!なげかわしい!って感覚は僕にはあんまりなくて、可愛いなあって感じ。なーに思い詰めてんだよ?そんなことでさって。まあ、そのアホさで自分が実害を被れば話はまた違うんでしょうけど、一般論として感じるのは、なんて、みんな真面目なんだ!ってことですね。素直ないい子じゃないかって。

大人塾のHPをパラパラと読みますと

「なんでそのくらいも出来ないの?」などと言ったりすることはありません。一緒に”一つ一つ”身につけていく。数に対する苦手意識が克服できるように勉強する習慣を少しずつ身につけていく。まずは数に対しての自信をつけて頂くことを大切にしています。」とか書かれてて(「和(なごみ)」という塾のトップページより引用)、優しいんですよねー。

だから、なんというのか、経済や企業がダメ傾向で、動きや人がドン臭い(効率悪し)としても、その鈍臭さの原因は、ニューメラシーやリテラシーから「だけ」ではなく(それもあろうが)、ナイーブ過ぎるっていうか、能力よりも精神年齢がちょい幼い感じ?そっちの方も原因になってるんじゃないかなって気もするのですよ。

ダメなんだけど、ヤバいんだけど、それでも現場で何とかさばいていく力みたいなものが足りないのかも。能力やら予算やら資材やら人脈やらとにかく足りないんだけど、そこを「なんかかんか」乗り切っていく力です。Streetwise、世間智と呼ばれる部分です。

Streetwiseや世間智知って、
教科書があるわけでもない、
学校があるわけでもない、
教師がいるわけでもない、
カリキュラムがあるわけでもない、
そもそも学びの場であるという設定すらない現場において、
他人がやるのを見たり、自分がぶん殴られたり、舐められたりするのを経験しながらやり方を学んでいくことです。
カッコよくいえば、ケーススタディを通じて本質的な法則性を抽出する能力です。それは知性の素朴な姿であり、「裸の知性」といってもいいです。
先程書いた漏れ伝え聞く「え、日本人ってこんな無能だったっけ?」って部分も、初等教育における知識技術というよりも、地頭の悪さ、臨機応変に考えて実行していく裸の知性のレベルが問題なのではないかと。

それを鍛えるのは、うーん、多分、環境的にあんまり足りていたらダメなんだと思います。
ちょっと貧しいくらいのが良くて、なにかが壊れても、新しいのを買う余裕がないからなんとかして直して使おう、代替できるものはないかとか探してるうちに何かが育まれる。それによって構造理解(なるほどココが欠損してるからあそこが動かないのかとか)と、創造性(それもじゃあコレを当てておけばいけるかも)が磨かれる。

野球やりたくても人数揃わないから三角ベースにしたり、「透明ランナー」とか開発してたしね。麻雀でも三人麻雀とかやるしね。

考えてみれば「透明ランナー」なんて難しい概念です。法律学を修めた今でこそ言えるんだけど、これって法学における「擬制」っていう概念と同じで、「本当は違うんだけど、実質的に見てそうした方が本質に叶う場合、そういうものとしてみなすこと」です。「みなし規定」ともいい、失踪宣告やら相続における胎児の地位やら未成年者の婚姻による成年擬制とか(成年擬制は今は消滅)。それを全くゼロから合理性だけで発案し、草野球の現場に応用し、しかも野球のルールと融合しながら、タッチプレイなどには適用せず、フォースアウトなど論理的にアウト・セーフが決定されるものだけに適用されるってやるわけですから、かなり知的レベルは高いですよ。そんな複雑な概念を10歳前後の少年たちは近所の原っぱでいとも易々と使いこなしていたわけです。
それだけ地頭が賢かったというよりも、そういうことやってるから地頭が鍛えられたんだと思う。そういった力は、長じてからも学校の勉強というカタチでは表現できないけど、現場の裁量やら仕切りという面では大いに役に立ちますしね。

人間というのは無きゃ無いなりに何とかする生き物ですし、その「なんとかする」って部分こそが、人類のこれまでの「進歩」とか言われてるモノじゃないのですか?アレが無いからダメとか言ってたら進歩なんかしてないって。

そして、それを企業なりビジネスなりに当てはめるならば、いわゆる「画期的なイノベーション」と呼ばれるものになるのでしょうし、今の日本経済で一番足りないのは多分そこだと思います。常識を叩き壊して、ゼロから物事を組み立てていく力です。

学校教育ねえ?
あ、それと学校教育がどうのって言われるのですけど、まあそうなんだろうけど、僕の実感でいえば、ちょっと違うのですよ。

さきほど、馬鹿歴=全人生くらいの感じで、子供の頃は勉強なんかろくすっぽしなかったですし、馬鹿だのなんだの言われても蛙の面に小便みたいな感じでしたけど、だからといってセルフ・エスティームが低いわけでもないんですよ。

ココ大事なところなんですけど、自分のアイデンティティや自分の可能性と、学校での評価(勉強が出来るとか)は、もうぜーんぜん別問題でした。勉強が出来ないとか、テストでダメだったとかいっても、だから自分はダメなんだとは全く思わなかったですよね。

それはもう、大人というのは何をしても怒るもので、いっそ台風や雷雨のような自然現象、初期設定として存在しているものくらいのもの。そりゃ雨に濡れないほうがいいに決まってるけど(先生に怒られない方がいいに決まってるけど)、雨に濡れたからといって、だから自己評価が下がるとか、落ち込むとかいうことは無い。ちくしょーとは思うけど、それは運が悪かったとか、しょうがないよねー実際宿題やってないんだしとか、まあその程度のものでしかなかったですよ。傘忘れる→濡れる→腹は立つけどしょーがないよねーって感じ。

つまり勉強やら学校教育やらにセルフ・エスティームやアイデンティティが影響される度合が低かったと言えます。ぶっちゃけ、あんまカンケーないねって感じ。

じゃなんでそんなに学校とか親とかの存在感や影響力が低かったのか?どこでセルフ・エスティームとかを築いていったのか?ですけど、それはあふれんばかりの自由時間、遊びの時間、原っぱとか、部屋とか、友達の家とか、下校時の寄り道とか、今の子どもたちに比べたら自由時間はたくさんあったんで、そこで滑ったり転んだり、うまくいってドヤ顔したり、一人ガッツポーズしたり、ダメダメで泣きたくなったり、いろいろやってて、そこで自分ってのはこんな人間ってのが実体験を通じて出来上がっていったのですよ。

あんな乗るのに苦労してた自転車だって、今では両手離して乗れるようになったぞとか、
下手くそな落書きもやってるうちに我ながら上手く描けたなって思うこともあるし、
ほとんどマグレなんだけどカーブを投げられたとか、
取っ組み合いの喧嘩してもこいつには負けないぞとか、
自分というのは「まあ、こんなもん」って自分把握が出来てたと思う。

それらは全て実体験に基づくものであったので、そこで得られるアイデンティティやら、セルフ・エスティームはかなり強固であり、学校や親「ごとき」が何を言おうが、揺らがなかったです。だから「学校(勉強)のこと」は、今の大人にとっての仕事とか税金みたいなもので、イヤだけどやらなきゃねー、できればサボれたらいいよねーくらいの感じでした。

ほんでもって自由空間から全部覚えてきたので、無きゃないなりの工夫であるとか、ゼロから法則性を洞察していく力とか、そのへんはもう得意中です。だもんで、消費税計算が出来ないとまずいなーって局面があったら、何なりと解決方法をみつけると思います。「出来ないからやらない」「出来るからやる」って発想があんま無くて、大体の物事が「やってるうちに出来るようになった」ですからね。

という意味で、学校教育のやり方が問題だとか言われて、まあそうなんだろうけど、でも、それだけじゃないだろうなーって思います。そういう自由時間で自分を作っていくのも学校教育の中に入るなら(シュタイナー教育みたいに)、そうなんだろうけど、僕の経験的な感覚でいえば、「教育」ってフォーマットにしなくても人は結構学べますし、ある意味そういうフォーマットにしないほうがより良く学べるような気もするのです。

 

Pocket