2026年日本帰国記(9)宇賀神宅訪問(2)

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いつもお貸しいただいている二階に部屋は、もう「勝手知ったる」どころか、実家の自室のような感じ。
そこでぐっすり寝て、トイレに降りると、既にご夫妻とも起きておられて朝ごはんまで。
前回の残りをアレンジしつつ、新しい品数も増えるという絵に描いたような家庭のご飯で、鯛のマリネとや五穀米などが増えておりました。またみっちゃんのコーヒーが美味いんですよね。そこらのカフェよりもずっと美味しい。

平和な食卓に、庭に野鳥が。あれはシジュウカラですねと言われて振り返ると、こぶりの鳥が(写真右端)。

他にオナガドリの家族も飛んでいた。鳥がでてきて、モンシロチョウがひらひら舞っているなら、「雨はあがったみたいですね」と。そういえばそういう法則があったな、忘れていた。シドニー都心近くは蝶々がそんなにいないし、鳥は多いんだけどデカいのが多いし(コカトゥーとかクッカブラとか)。

食後には恒例になっている宇賀神さんによる庭園の解説をしてもらいました。毎回いろいろ変わっていて面白い。今回は緑を基調にした、より自然ぽい佇まいになってました。

まだ6月なのに咲いている気の早い朝顔。

下はあとでみっちゃんから送っていただいた満開朝顔の写真。

台風情報で煽るので、まさかのために先に倒しておいた庭のテーブルとチェア。結局、台風だと言われなかったら誰も気づかない、普通の梅雨の日々でしかなかったんだけど。

緑の饗宴。

ほんとに事あるごとに書いているけど、日本のこの濡れるような緑(実際濡れているが)がいいです。オーストラリアの緑はここまでしっとりはしない。オーストラリアに住み始めて最初に帰国したときに、なんて植物が獰猛なまでに繁殖し(線路際の雑草群とか)、かつ緑の鮮やかな国だと再発見してから、帰国の楽しみになってます。6月の梅雨時期はひときわ綺麗。

片隅の金魚達も健在。僕が最初に来てからずっと同じ金魚くんらしいです。

これが本来の(まだ咲いてない)朝顔

宇賀神先生の解説講義がないとわからない。

この庭には雑草はまったくないそうです。あったらこまめに取り除いているし。
 これらも雑草が生えてきてるかのように見えるけど、全部植栽したもので、これは◯◯と名前を教えてもらったんだけど、ごめん、覚えきれんかった。

これらの鉢はもう終わったかのように見えるんだけど、蝶々の幼虫やら卵やらがあって抜いたら全部死んでしまうので可哀想だから残してあるらしいです。

残しておいたら小さなパンジーのような色鮮やかな花がまた咲いてきて、一般には一年草として扱われているようだけど、本来は多年草らしいです。

ここの芝を切りとって、地肌がのぞいている部分に移すと、 根がしっかりついてきたそうです。そういうのって嬉しいよね。

庭いじりの道具や素材がいろいろと。

ここは以前ワンコ二匹の部屋(いずれも他界)。
なんでも家の設計をするときに、床暖房とともに、ワンコの部屋を特に作ってもらったそうです。ワンコも、買う前に何度もショップに通って、よしこれだと決めて買いに行ったら、それまでいなかった兄弟らしき子犬が一緒にいるから、生き別れにするのも切ないので二匹とも買ったらしいです。

この電気メーターに雀が巣を作っていたらしいです。

花鳥風月といいますけど、こういう駅近くの住宅街でも、気をつけていればいくらでも発見するものはあるのですね。解説してもらわないと分からないから、毎回の講義が楽しみなのです。

ランチまでまだ間があるので、僕はひとりでぶらりと駅界隈を散策してきました。これが結構面白かった。いつも車に載せていただくのだけど、歩くとまたゆっくり見ることが出来て、発見があった。

大通りの向こうに駅名の自治医大があった。

自治医大といえば、僕の大学受験中、防衛医大と並んで偏差値トップクラスで、なんであんなに高いのか?と思ってたんだけど、授業料が無料なんですよね(正確に言えば、修学資金の貸与だが、義務を果たせば免除になる)。事実上無料で医者になれるコースとして有名なので、東大医学部狙ってる層もこぞって受けているらしい。そもそも自治医大って何なの?というと全国の無医村や僻地医療の人材を確保するために、自治体(47都道府県)がお金出しあって作った大学らしく、そのために一定期間(9年間)の僻地医療従事が義務付けられている(それをやると全額免除)。
ほお?と思ってさらに調べると選抜は各都道府県単位で行い、僻地率などの微調整はあるも、だいたい各都道府県で2-3人枠の選抜試験。東京なんか受験者が多いから超激戦区になる。一見不公平なようだけど、僻地医療の必要性や僻地面積でいえば、東京だって他の自治体と似たようなものなので、同じで良いと。なるほど。妙に競争率の平等とか悪平等に毒されずに、僻地救済という原点を死守してるのは素直に評価すべき。

駅周辺を歩いて思ったのは、進学塾と病院(薬屋)の多さです。

良く見かけた「宇高宇女、栃高栃女」というのは、宇都宮高校(女子)と栃木高校(女子)なんだろうな。地域によって進学校の略称が伺えて面白い。「とちこう」なんて初めて知った。宇高が「宇宙高校」の略だったら面白いのになーとか馬鹿なことを考えながら歩く。

一方医療薬剤系も多い。いちいち全部撮ってないけど。

それとは関係ないけど、大きなTSUTAYAがずっと前からある。

今どきTSUTYAがこんだけ大きいのは珍しい。てかまだやってるのか?というくらい、絶滅危惧樹種だったはず。調べると全国1500店舗だったのがいまは600店舗くらいで約1/3に激減。アマプラやネトフリのサブスクに押されてレンタルとか今どき借りる人がいるのかってことですけど、それでもまだ1/3は残ってるのですね(レンタル業務をしているのは250店くらいらしいが)。ま、確かにサブスクも万能じゃないし、不満も多いし(見たいのがないとか)。今は体験型書店(カフェで読むとかの)やら、文具やトレカの対戦スペースやらに変貌しているらしい。
ちなみにこの駅前TSUTAYAは開業30周年らしいが、かくも生き残っているのはなぜかというと、このエリアは自治医大という有名大学・機関があるため若い人たちが常に一定のボリュームで代謝することと、比較的知的な老年層が若い頃からのTSUTAYA文化(本とカフェ)に慣れしたんでるからだそうです。

そうかと思うと、ローカルFM放送局が駅前通りにあった。

沙村広明の「波よ聞いてくれ」を連想してしまった。

駅の周囲には、ほおという造形物が。

あとから調べてみると、「天平の昔から続く、青く澄みわたる下野の空」をイメージしたものだそうです。
駅の反対側にもモニュメントがあり、こちらは馬の埴輪を表しているようです。

ふむなぜここに埴輪が?と思いつつ、先に進むと、街道沿いにピッカピカの下野市役所が。おー立派な、下野市、お金あるのねー、だからあんなモニュメントも作れるわけね。

市役所の玄関口に大きく、奈良県明日香村を応援していますと出ている。埴輪といい、明日香村といい、なんか関係あるの?

再び、駅に戻ると、駅にも大きく「東の飛鳥」と書かれていた。

これは一体何を意味するのか?と思いつつも、駅周辺の街路樹の整い方なり、地味なエリアにも植木の植栽や手入れが整っていること、

やっぱお金あるんだ、この自治体という印象になったのでした。実際、スラム街っぽいエリアはどこにもなかったし(宇賀神さんの車で走っていても見かけなかった)、まだマンションの新築とかやってるし、不細工なタワマンはなかったし、一戸建てが多いのだけど、それなりに瀟洒なものが多かったし、豊かなエリアなんかなと。
そこで、答え合わせで調べてみるとやはりそうでした。
下野市は財政の健全さでは栃木県下25自治体のトップだそうで、平均世帯年収も高く(自治医大を抱えて医療関係者が多く、かつ大企業も工場をつくっているし、宇都宮と東京方面などのベッドタウンになりうる立地のためらしい)、全国平均と比較しても80万円以上高いらしい。
なるほどね、見た目の印象と実際とでそう違いはなかったわけか。

次に謎の「東の飛鳥」ですが、これも調べていくと面白いことがわかりました。このエリアは古墳が多く、重文クラスの出土品も多いし、古くは下野の出世頭の下野古麻呂という人物が中央政界で出世し、日本で最初の法典である大宝律令の起草メンバーにまでなったこと。国分寺など当時最先端の全国規模のシステムが行き渡っていたことなどから、飛鳥奈良時代において太いつながりがあるそうです。
となると、疑問はさらに時代を遡って、なぜこの地がそうなったのか?です。

律令制度は近代的な国家づくりの第一歩になっていったのだけど、もともとは聖徳太子の冠位十二階まで遡るでしょう。ことあるごとに書いてますが、僕が思うに、日本史上もっとも聡明な人物は空海と聖徳太子ですが、革命性や先進性でいっても信長や坂本龍馬以上に聖徳太子は革命的だったと思います。だって、冠位十二階って、氏姓制度の破壊を目論んだものですから。
国家という人間集団を滅ぼすものは昔から縁故感情でしょう。自分の一族の利益だけで動いていき、固定化すると、馬鹿が要職に着くから結局グダグダになって瓦解する。古今東西だいたいそう。氏姓制度も、氏は一族の担当職域を示すもので、この一族はこの仕事という感じで、血縁で仕事を独占していた。もともとこの時代、暴力団や半グレの権力闘争と変わらない荒っぽい時代で、聖徳太子が摂政をやってた表役の推古天皇の一代前の崇峻天皇は、宮中で儀式の途中で堂々と惨殺され、死骸は殯(もがり)などの儀式も行われず即日埋葬されたという。もうヤクザ映画以上の荒っぽさです。だから政治といっても有力豪族の利益配分の争いがメインで、天皇家も逆らったら殺される。誰も国家全体の理想を考えない。崇仏廃仏も利権争いでしか無かったし。

そんな中、血縁や有力集団の出身でなくても優秀だったらどんどん登用していくべきだというので作ったのが冠位十二階でしょう。実際には蘇我などトップ連中は例外的に権力を維持したし(それをも奪うと戦争になるし)、どちらかといえば中級下級の官吏をガシッと固める部分に実戦的な意味があったのでしょう。それでも豪族連中に対する牽制になったでしょうし、より大きなことは、地方の優秀な若者たちに大きな希望を与えたと思うのですよ。がんばれば出世できるぞと。
有力者の意向ひとつで世の中が決まっていくという関係者以外には絶望しかないシステムから、透明性のある秩序に変革していこうというのが理想の一つで、それが100年後の大宝律令という形で結実していく流れにあると思います。
多分、推測ですが、下野にいた連中、この古麻呂も奮起したと思うのですよ。聖徳太子の理想を受け継ぐのは俺達だといわんばかりに。

その後の歴史の流れでいば、せっかく律令制度にしたんだけど、結局元の木阿弥で、縁故情実に流され、藤原氏が宮中を仕切っているうちにガタガタになり、行き場を失った全国の膨大なエネルギーが、やがて武士階級という全く新しい化物を生んでしまったのでしょうね。

律令制度の本家である中国の場合、多分源流は始皇帝の法家重視まで遡るんだろうけど、その後、法家だけだと角が立ちすぎるので儒教というウエットな要素とハイブリッドにして延命した。儒教の甘味をまぶして革命性の角を丸くする手法は、冠位十二階でも同じで、冠位の名前も1、2ではなく、徳・仁・礼・智・信など儒教丸出しのコーティングが施されている。
中国の科挙という制度自体は、王朝は激しく変わりつつも、清朝末期まで続いたらしいから、田舎の優秀な若者達に、チャイニーズドリームとも言うべき出世ルートは常に示され続けた。また儒教の恐い側面である易姓革命の思想(馬鹿な王様が出てきたらこれを滅ぼすのが天命であるという思想)も続いた。

これに対して、昔からことなかれ主義民族の日本の場合、身内の平穏を守るために科挙と易姓革命は導入しなかった。だから早々に腐りきって武士階級の勃興を招いた。中国には武士階級はないと思います。関羽など著名な武将はいるけどそれは武官としてです。文官と武官という役割分担ははっきりあったし、強力な文官もいた(Kingdomの昌平君とか)。日本のようにクーデター政権がそのまま延々続く形の場合、政権の上から下まで全員が軍人(武士階級)であり、武士階級の人間が文官のようなことをしていた。一応天皇だけは残しておいて、征夷大将軍に任じられて幕府を開くという形式こそ残っていたけど、形の上でしかない。そこでは冠位十二階で示された開放的な人材登用の国家理念のパースペクティブはなく、身分はガチガチに固定され(戦国と幕末はその例外でしょう)、たまに出てきた名君がいい仕事をする程度で、組織原理はあくまで家(身内)中心のものであった。だからこそ新生国家を建設する明治維新においては、武士階級を全廃する必要性があったのだと思う。

この聖徳太子の理想未来に日本の田舎の若者たちは触発されたのでしょうし、下野古麻呂もその一人でしょう。聖徳太子から150年後の聖武天皇の時代の国分寺や薬院などの最先端のインフラを下野が先んじて作っていたのも、そういう感覚に鋭敏だったからと思います。

ではなぜ下野なのか?です。
調べたら地政学的な理由がちゃんとあるらしいです。
一つはあのあたりは台地で川の氾濫などのリスクが少なく、ゆえに安定的に収穫があり、豊かであったこと。また、交通の要所であったのが大きいそうです。
僕のように羽田から新橋乗り換えで上野東京ラインで、、とかやってると、下野が交通の要所というのがピンとこないんだけど、昔はそうだった。「東山道」というのあって、昔はこれが大動脈だったらしい。これは東北から、栃木や群馬を抜けて、長野に行き、日本アルプスの間を縫って、飛騨高山に抜け、京都や奈良を結ぶルート。東海道は、ごく最近(江戸時代になってから)家康が江戸を再開発してからのもので、実はほとんどの時代ではシカトされていたらしい。なぜかといえば、大井川など大きな川をいくつも超えるのだが、これが橋梁建築が未熟な昔では難所に過ぎること。東山道のアルプス山麓も地震や地すべりはあるが、毎年のように氾濫する数々の川に比べればリスクは格段に低い。なるほど、多分、鞍馬にいた義経も金売吉次に誘われてこのルートで奥州まで行ったんだろうな。真横に突っ切ったら東北と近畿は近いし。
飛鳥奈良時代でも東国の睨みは重視されていて、その意味でも要所にある下野は重要だったらしい。だから中央の動きは良く伝わったし、古麻呂ががんばれば中央政界で出世することも出来たんだろうと推測します。古墳が沢山あったり、出土品がぞろぞろ出てくるのも当然なのかも。

長くなりましたが、なかなか勉強になりますね。
ぶらぶら歩いて、地元の大きなスーパーに入りました。地方のスーパー面白いですもん。

入ってびっくりしたのはお盆用品が特設会場になっていたこと。
え、こんなにお盆をガチにやるのか。京都や大阪の大都市圏に住んでた頃はそんなに記憶無いけどなー。てか売ってる商品も、何をどう使うのかさっぱり分からん。ウチは両親ともども戦後に田舎から都会に出てきたクチだし、故郷に里帰りする習慣もそんなになかったし。
それに8月のお盆商品を6月に売るのか?と思ったのだけど、あとから知ったのですが、関東などでも7月にお盆をする地域もかなりあるとか。だから企業の総務部などご贈答係の人は、相手によっていつお中元を送るか悩みのタネらしい。
ピンぼけして悪いけど、お中元コーナーもあれこれ充実。カルピスの詰め合わせなんか久しぶりに見たわ。

面白いなーと思ったのは、こういう活字メディアのコーナーがバーンとあること。実家の近くの京都イオンにはこんなの無いわ。 またレジ前の最後の一押し売り場には、熨斗袋がびっしりと。

いずれもこのエリアでは需要が沢山あるのでしょう。宇賀神さんにあとから聞いたら、周囲の農家の方々が沢山おられるので、そういう方々は昔の風習を大事にされるからじゃないかと。なるほど。

結構1時間以上歩いてきました。面白かったわー。
そろそろいい時間ということで、宇賀神さんの提案で、「ここに行ってみましょう、私も初めてです」ということで、「花之江の郷」というところまでドライブしました。
もういつもいつも目新しい企画を考えてくださって、ありがたいやら、もったいないやら。

土曜日のランチタイムなのですが、結構沢山の車が駐められてました。
メインになるのはバイキング形式のランチ。一品物も頼めるようですけど。

中に入るとお土産コーナー。

その前に会計とお持ち帰りの品のメニュー。文字が良く読めなくて申し訳ないのだけど、カレー三種が推しのようです。薬膳カレー、欧州スパイスカレー、トマトカレー。あとで食べますけど。

中に入るとドーンとバイキング。この写真右奥にあるのがカレーコーナー。

反対側にはデザート。このスイカに目を奪われますね。

とりあえずイチオシらしいカレーから。ご飯も二種類あった。とりあえず3種のうち薬膳とトマト。どちらも美味しい。辛く見えるけど、全然辛くない。むしろあとで食べた欧州スパイスカレーが胡椒がきいてて辛かった。

この全体の雰囲気がいいのですよね。
そんなに贅を凝らせた作りではなく、ありていにいって小屋みたいな佇まいなんだけど、眼の前が池で、緑に囲まれているとキャンプ的な野趣があって、気持ちのいい空間になってました。

カレーで気を良くして、他のものも取ってきました。もっぱら野菜が多いのだけど、よく調理されていて、どれも美味しい。肉類は鶏の唐揚げくらいでそんなにないんだけど、野菜だけでも満足します。

宇賀神さんに撮っていただいたもの

次はデザートへ。

本当はうどんもあって、このタレがまた美味しそうだったけど、満腹で力尽きた。バイキングは意地でも全品制覇とか頑張るタチなのですが、ここのは食べ切れない。ほかにもドリンクバーのように、コーヒーもあったし。

この場所は本来は地元の篤志家の方が、里山の自然環境を保全し、昆虫や野鳥のサンクチュアリにしようとした植物園らしいです。ただしかし、手入れも大変だろうし、現在はこのレストラン主体の活動になっているようです。
裏手の散策コースがあるんですけど、入園無料で、オフィスもやってる風ではないし、

入口の門もどことなく寂れているし

ただ野草の鉢植えは売られていました

もっとも野鳥や虫のサンクチュアリであるならば、人手で整備しなくて自然のままでいる方がより目的に叶うとも言えるわけですしね。

駐車場前の池(レストラン横の池)ですが、雰囲気はいいんですよね。 

道路沿いの看板もバイキングのレストランがメインであるかのような感じでした。この道の反対外にも広大な敷地があるんだろうけど、車両通行止めになってました。

これはその横の地元の風景ですが、この雑草の花畑は見事でしたね。このあたりのエリアはほんとのんびりしてて、いい感じです。

ちなみにこの花は何なの?とAIに写真を入れて聞くと、白いのはヒメジオン(or ハルジオン)、オレンジ色はルドベキア(アラゲハンゴンソウ=粗毛反魂草)だそうです。ほんとかどうかわからんけど。

戻ってから、宇賀神さんはAI生成の動画づくりを頑張っておられました。

地球に巨大隕石(小惑星)が落ちてきたのが、恐竜絶滅の原因で、、、という文脈での動画らしいです。いつものパズル作りで、ジュラ紀か白亜紀かという。
でも動画がよく出来ていて、生成される動画は3秒程度で、プロンプト(叙述)が微妙に違うと結果も違ってくるという隔靴掻痒な感じで。
しかし、3秒動画を4本つなぎあわせたのをみると、かなり見ごたえのあるものに仕上がっていました。すごいなー。

https://www.facebook.com/reel/1013678287693663
この動画はこのFBのリンクで見られます。

そして今回最後の晩餐ですが、ひつまぶしでありました。うわー、そうくるかーという、みっちゃんの意表をついた攻撃(攻撃じゃないんだけど)。美味しかったです、もちろん。

というわけで、今回は興味本位の調べ物が多く、いつもの倍くらいの長さになるわ(書く時間も倍かかった)、旅行記というよりはエッセイ風の読み物になってしまったけど、下野のことがよくわかった気がして、僕個人は満足です。

調べたけど書ききれなかったことが沢山あるんだけど、そもそもなんで下野(しもつけ)なの?という点だけ。もともとこのあたりは穀物も豊かで植生も豊穣とした、という意味での「毛(そういう意味があるらしい)」の国と呼ばれていたらしい。その北側を上毛野(かみつけの)として現在の群馬県エリア、南側を下野野と呼び、「かみつけ」は後になまって「こうづけ」になる(忠臣蔵の吉良上野介ね)。

でも「下野」で「しもつけ」と呼べというのは無理があるわな。そう読ませたかったら「下毛」でいいんじゃないかと思いきや、最初は「毛野」と言ってたらしい。大宝律令の12年後の713に「好字二字令」というのが出され、地名は二文字で良さげなものにせよというので、「毛野」に。その後、上下に分けて上毛野、下毛野になり、毛が消えて野になった。
なんで毛を消すのよ?消すなら野でしょ。もともと毛の国とか言ってたんだからと調べると、確かに蘇我毛人(えみし)と書くように、聖徳太子の時代は「毛」はすごく良い意味だった。だけど、百年後の律令国家勃興期=それは中国完コピ時期でもあり、中国語的には毛が動物的で良い意味では無くなって、それに洗脳されていた中央官僚は毛を消したらしいのですね。そういう説もあるという程度だけど。
だから、「しもつけ」と「下野」は、字と読みが全然一致しない、へんてこなものになったらしい。まあ、そういう例は沢山ありますけど(なんでこの字でこう読むの?)。いずれも官僚の「なんでも二文字で美しく」という趣味じゃないかな。
「長谷」(はせ)だって本来は初瀬、泊瀬らしいし、読みだけ残ってるから、「ながたに」がなんで「はせ」になるのよ?という。周防(すおう)の国も、本来は大きな島という意味で、それを「周(あまねく)防ぐ」という国防上のカッコ良さげな2文字に無理やりしたからだし、泉の国は一文字だから和をいれて和泉にして2文字にしたとか。
うーん、聖徳太子はそんなこと望んでいたのかしらね。官僚制には官僚制の弊害もありそな気がするね。キリがないからこのくらいで。おつかれ!

 

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