昨年の7月から数えて約8ヶ月の短いワーホリを終え、帰国直前の松原さんが来訪されました。まだ大学生なんで、帰ってから就活が始まる。そのあたりは一つ前に書いた廣瀬くんと同じ。
この稼業の一番の楽しみは、このBEFORE/AFTERをリアルに見ることです。なんせ、おっかなびっくりでシドニー空港に着いて、針でつついたらパーンと破裂しそうなくらいテンパってた一番最初から知ってますもんね。この滞在期間でどのくらい伸びたかというのが、オーラ的に丸わかりで、そういう一種の人間的奇跡みたいな場に居合わせること、その端っこに関わること、それが一番うれしい。
どんな仕事もそうだと思う。医者だろうが、教師だろうが、建築士だろうが、料理人だろうが、関わった人(患者、生徒、施主、お客さん)がなにがしかハッピーになってくれたというこの差分こそが、もう、イイんですよねー。ガツンとくるよね。ズシンと腹に響くよね。幾ばくかの金銭を得ることの数十倍は嬉しい。「冥利」ってやつ。
で、松原さんの場合ですけど、ほんと楽しいワーホリ生活だったらしく、それはなんというか、冒頭の満足げな顔を見れば分かると思いますが、さらに表情豊かな写真を見てくれたらもっとよく分かるでしょう。
ということで先に写真を出しておこう。
まず比較的普通な感じ
でもこういう表情(楽しー!って感じの)が一番多かった(写真の枚数的にも、実際にも)
松原オリジナルの オペラハウスのポーズ。ほお!
ちなみに来たばっかの頃って、こんなだったんだもん↓。笑ってるけど目が笑ってないというか、緊張感が伝わってくるでしょ?
松原さん、最初のバッパーの頃からすぐに友達が出来て、一緒に夕ご飯作ったり食べたりするようになって、そこで知り合ったイタリア人のお姉さんと一緒にシェアすることになって、、というのが「前回までのあらすじ」(New Faceの頃)でしたが、以後、学校に、バイトに、そして最後の短期のラウンド(というよりは旅行くらいの感じだが)がめっちゃ良くて、、、
とにかく何をやっても楽しい、「箸が転んでもおかしい」とかいうけど、そのくらいの高確率で良かったらしく、「今、振り返っても良かったことしかなくて、イヤなこととかは確かにあった筈なんだけど、全然思い出せない」と何度も言っておられました。
つまりは圧倒的に「良かった~!」ということなんだけど、そこでお話したのは、その「良かった」という感覚をナマのまま覚えておいてね、ってことです。
来て&体験して良かった、大満足でしたってことだけど、じゃあ具体的に「何」がそんなに「良かった」の?っていえば、多分、言えないと思う。
英語が伸びたとか、視野が広がったとか、生きていくスキルが身についたとか、就活面接に使えそうなエピソードが出来たとか、、、色々あるかしらんけど、その全てがピント外れでしょう?「そーゆーことじゃなくて、、、」って気がするでしょ?
それは一見怖そうな髭のおじさんに、超ビビリながらも、しどろもどろになりながらも、たどたどしい英語で一生懸命言ってたら、”OK!”と力強い返事と柔らかい笑顔が返ってきて、「ああ、通じたあ!」という、なんとも言えない「あの感じ」かもしれない。
それは、クソ重い荷物を持って階段のところで四苦八苦してたら、どこからともなく”Let me help you”と声がかかって、ひょいと荷物を持って階段の上まで運んでくれ、そのあと”Good luck”と一言残してスタスタ歩き去っていった通りすがりのお兄さんのあの笑顔と声かもしれない。
それは、世界からきた皆とテーブル囲んで、半分くらいは何言ってるんだかわからないんだけど、雰囲気がとにかくフレンドリーだから居心地良くて、そのうち誰かが自分の失敗談を面白おかしく語り出して、皆と一緒に手を叩いて笑い転げていたあのときかもしれない。
それは刹那でありながらも、毎日のように知らない誰かと出会い、真正面から自分を見てくれるあの全く邪心のない透き通った瞳であり、聞くだけで元気が出るような”have a good day!”などの一言であり、芯が入っているような力強い声の質であり、そんなこんなで毎日のように何らかの形で魂をハグされているような日々。
だけどそれってどうやって言葉にするの?
「視野が」「語学力が」「経験値が」「スキルが」とかいう記号にはならないでしょう?そんなもっともらしい記号、いっそ「しゃらくさい」くらいに思えてしまうくらい、もう圧倒的な「なにか」を得たと思う。そして、それが日々あふれんばかりに満ち満ちていたから、全てが「良かった」としか言えないのでしょう。
だから、それはもっともらしい言葉や記号にしないで、あるがままのリアルな感情として、無添加のまま保存しておいてください。その場でも話したけど、歌詞でよく引用する「たしかに本当に見えたものが、一般論にすり替えられる」「確かに輝いて見えたものが、ただのキレイゴトで終わる」という悲しいことにならないように。
なぜなら、その「良かった」感というのは、これからの人生の一つの指針になるから。「しあわせ」というのは、目にも見えない、手で触れない、そして実は言葉にも出来ないものであり、ただのナマの感覚と感情だけのもの。だからそのままの形で覚えておくしかない。
それさえ覚えておけば、この先どこに就職し、誰とどうしようが、この感覚に照らし合わせて「なんか違う」「大事なものが足りない」とか分かるから。
それさえ覚えておけば、将来にわたって、なんか変だな、ちょっと違うなと思った時点で対処できる。こういうのは早めに対処すればするほど割と簡単に解決する。気のせいだよとか、疲れてるんだよとか気休めを言って放置しておくと、面倒くさいことになる。そしてまれに弁護士沙汰になったりもする。早期発見・早期治療はなんでもそうです。
でもね、今の日本社会で、そんなこと思ったとしても、強烈な抵抗勢力(自分の心のなかに)がありまして、いわく、それは「幸せの青い鳥」であって、どこにも実在しない幻影であり、ないものねだりであり、ただの甘えであるという感覚です。コレにやられてしまうケースが多い。
確かにそういうケースもあるから一概に言えないんだけど、だからこそ明確な基準があった方がいい。そして、この「良かった」感のナマの感情の保存は、それにとても役に立つ。それを覚えておけば、”どこにも実在しない青い鳥”「ではない」ことが分かる。だって、実在したもん、体験したもん、それも奇跡的にとかマレに体験したわけじゃなくて、ほぼ連日にわたって当たり前のように体験したもん、あれを幻影だとか、ないものねだりとは言わせないぞと心を強くもつことが出来る。
それに、それを得るためにすごい特殊なスキルが必要だったわけでもない。英語もまあしょぼいし、世間もよう知らんし、金もないし、コネなんか最初の時点では僕以外誰一人いないし、腕力もないしのナイナイづくしで、100%徒手空拳のひとりぼっちから全てが始まって、それでも毎日のように得られた。そんな難しい話じゃないだろう?ってのも確信をもって思えるでしょう。
でも記号にした途端、中核になる感動が雲散霧消してしまってわからなくなるのですよね。だから覚えておくといいよ、一生の財産になるよ、と。
ちなみに先程の歌詞の引用は、真島昌利(もとブルハ)のソロアルバム(Raw Life)にある「こんなもんじゃない」という曲ですが、まさに。コレは違う、私が感じたものは、そして私が今欲しているものは、こんなもんじゃなくて、もっともっと圧倒的なもの、こんなもんじゃないって。
以後、感情を感情のままナマで記憶保存する方法やコツはあるのか?とかいう話になるんだけど、それはまた別にエッセイとかで書きます。