New Face:高見さくらさん

「客観的な正解を探す」のではなく「主観的な正解を感じる」ための戦いの難しさ

Pocket

成松さんと同期の高見さんです。
彼女がまた面白くて、ベトナムで2年ほど日系企業で働いておられました。それをステップにして、もっと世界を広げ、オーストラリアでも~と。

去年、視察にオーストラリアに来られてます。
その際、ミニオフみたいにAPLaCの人々に会ってますし、たまたま同時期に来られていた来られた西尾さんとともに、僕と小平さんと三谷さんでブロンティで集まりました(高見さん、西尾さん歓迎@Bronte with 三谷&小平)。

高見さんがどういうお人かというと、実はよくわかりません(笑)。
この人はですねー、何でもチャッチャとソツなくこなしちゃって、あんまり破綻が見えないから、人柄の凸凹も見えないという。

別に意図的に韜晦しているわけではないと思うのですが。
あ、「韜晦」なんて難しい日本語使っちゃいましたけど、知らない人のために解説すると、読みは「とうかい」。意図的に包み隠すことだけど、「隠蔽」「誤魔化す」「隠す」と違うのは、それらがどちらかというと自分のダメなところや不利な部分を隠そうとするのに対し、韜晦は逆に自分の長所や自慢できることを敢えて言わないというニュアンスがあります。実はめちゃくちゃエラかったり有名だったりするんだけど、それを言ってしまうと、色眼鏡で見られたりするので、「まあ、いろいろとね」とかいって曖昧にしておくような場合です。

で、高見さんも別に韜晦してるわけではないのでしょう。敢えて謙遜とかいう感じでもない。ベトナムで2年も現場の第一線でやってたら、「いやあ、ベトナムでは~」とか「なにかといえばそればっか喋る人」になってても不思議ではないんだけど、そうではない。てかこっちから積極的に聞かない限りそういう話は出てこない。およそ自慢話とかしそうにないタイプ。地味に、しかし着実にやることはバリバリやっている。どこの職場でも喉から手が出るほど欲しいであろう不言実行の人材。大体、そこそこキツいはずの一括パックやって、それでも地が出てこない=けっこう余裕で切り回せるんだから、実力のほどもわかろうというもの。

ただね、このどういう人かわからない問題は、そのまま高見さんの課題でもあるような気がします。本人にもよくわからないという。
その意味で成松さんと好一対で、いわゆる自分探しというか、「自分ってどういう人なんかなー?」というのが今回の渡豪の一つのポイントになっている(高見さん的にはどうか知らないけど)。二人共シェア探しでは50件くらい見てまして、もともとどちらも実務的には有能だからそのくらい出来てしまうんだけど、自分のジャスピンの好み、「これじゃあ!」って感性ツボがどこにあるのか、わかってるようで今ひとつわからないから、決めきれないまま時間がかかってしまったという感じ。

思うに、出来る人がこのパターンになるのは、ありがちなことなのかも。割とまんべんなくこなせるからフックがない。逆に、出来なくてどっかでコケてるくらいの方が個性は自覚しやすい。なんで自分は出来ないんだろう、なんで自分は人と違うんだろう、やっぱ考えるでしょう。
思い違いしないでほしいのは、優秀な人が個性が無いって言ってるわけではないのですよ。個性なんか誰でも似たような度合であるはずです。指紋や容貌が違うくらいの感じであるはず。ただ能力にムラがある人の方が、うまくいかなくて絶望的な局面に接しやすいし、そのとき深刻に自分の個性に対峙するだろうから自覚しやすいってだけのことです。ソツなくこなせてしまうと、そこまで深刻に考える必要もないですから。

余談ながら、まったく真逆に、ものすごく強烈な個性派でありつつ且つ優秀なタイプもいます。奇人変人なんだけど仕事はむちゃくちゃ出来るとか(司法試験受かってくるような連中はこのタイプが多い)。奇人系は、僕もどちらかというとそっち側だと思うのだけど、彼らがときとして優秀になりやすい理由はわかる気がします。なぜなら奇人であるがゆえに普通の人の3倍くらいいろいろやらなきゃいけないから。周囲に文句を言わせないためには実績を出すしかない。今も昔も日本社会は無能で奇人であることを許すほど寛容ではないから、「力でねじ伏せる」くらいの膂力がいる。だから自然に鍛えられて、その結果実務やら世間知やメンタルが強くなるという感じ。

高見さんも成松さんも奇人ではなく、いたってバランスの取れた健康的な人柄です。でも、なだらかな起伏ではあろうが、それなりに好きとかキライとか凹凸はあるはずです。でも、これまでの仕事経験などでそれが曖昧になっている傾向はあるのかなーと思いました。

高見さんの場合、英文履歴書を作ってるときにびっくりしたのですが、ベトナム以外にも、大学時代からものすごいバイト&職歴なのですよ。大体うちにくる人はバイト歴豊富な人が多いですけど、それ中でもかなり多方面にまんべんなくやってる。レストラン系、ホテル系もあれば、リゾート系もあり、役所の福祉系もあり、映画館も鉄道も倉庫もスーパーも地元の文具店も。それに2年ベトナムがあるわけで、まだ26歳(だったかな)にしてはよくやっている。逆に言えばなんでもそつなくこなせるし、こなせるだけの力量はある。まあ一生食うには困らんでしょう。

でもね、実務に忙殺されていると「浮世離れ」したことを考えるヒマがないですよね。

何度か書いたことがありますが、大卒と高卒(中卒)のどこが違うか?で、誰かが書いてて納得したのですけど、知能や知識ははっきりいって差がない。賢さと学歴は実はあんまり(まったく)比例しない。では何が違うかというと、大卒は大学時代遊んでたりして、そこで「浮世離れ」する。現実的には何の意味もない、一銭にもならない、ときとして非常にくだらないことに夢中になったり、あるいはひたすらぼけーっとしてたりする。それが(人によるけど)、その人の器を大きくしたり、あるいはその人が本来持っている「味」みたいなものを引き出したり、増幅したりする。大卒には(もちろん全てではないけど)、そういう茫洋とした、広大な牧場のようなひろがり(「夢とロマン」みたいな)が人間性の中にある人がいて、それがよりステップアップしようとしたときに意味を持ってくる。一方、高卒や中卒の方が実務で揉まれているから、実務能力は大卒以上にある。だけど、自分のなかに「意味のない空間」を作ってるヒマがないので、ときとして現実的過ぎてしまって、それがネックになったりすることもある。

つまり、ある程度、現実的に意味のない行為や環境にいるとか、ガリガリした現実から離れることが意外と大事なんじゃないかってことです。なお、言うまでもないけど、この本質部分こそが大事で、大卒かどうかはそれと多少パラレルかな?ってだけの話です。中卒でも茫洋とした魅力的な広がりをもってる人はいくらでもいますし、逆に大卒でも1年目から就活だとかギスギスしてると広がりに欠けてきます。

僕のプロパーである司法でいえば、法律「家」と法律「屋」の違いのようなもので、後者は示談屋とか地面師(土地詐欺)なんかで、彼らは本当によく法律を知ってるんだけど、でも「哲学」「ロマン」がない。「家」は、「なぜこういう法律があるのか」の原理哲学まで血肉になってるし、それは「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ平等でないといけないのか」「自由と平等は本質的に矛盾する、ギリギリのところでお前はどちらを選ぶのか?」という、考えたところで一銭にもならず試験にも出ないような、ものすごい原始的なレベルの法哲学からやっている。「どうすれば人々が幸せになれるのか?」というド直球すぎる命題を、それこそ脳漿振り絞ってひたすら考えるという時期がある。
僕らも下宿で飲んでは、その種の子供じみた論争をやって、「お前は究極的に人間というものを信用してないだろ?」「そんな簡単に信用なんて言葉を使うヤツの人間性こそ疑わしい」「なんだと、もういっぺん言ってみろ」などと時としてつかみあいの喧嘩みたいな感じになってました。高橋和巳の小説の世界ですね。そこはすっごい下地があるわけですよ。

多分どんな職業でも、趣味でもなんでもそれはあると思います。先端エンジニアで就職もバッチリとかいうはるか以前には、天文少年だったりラジオ・メカ少年だったり、目を輝かせてムキになってた時代があると思う。それが彼らの本当の「資産」なんだと思います。小手先じゃなくて、人格の中核からダイレクトに出てくる技術。技術がもう生理感覚になっている。「間違ってる」と感じるよりも「気持ち悪い」と感じる。だから強い。

また、別のその領域に属するようなことでなくても、アメリカ一周無銭旅行をしたとか、どっかの人妻と駆け落ちして見つかって死ぬほどボコられたとか、そういう経験がその人の器を大きくする(しないときもあるけど)。

そういう現世的には何の意味もない、得にもメリットにもならない、しかし愚劣なくらい無邪気な時間や営みというのは、その人が本来持ってる味を引き出してくれます。また自分がどういうところに面白みを感じ、ムキになるかが自分でもわかるし、新しい自分をどんどん開いていける。それらが生きていく資産になっていくのだと思います。

高見さんも、シェア探しでは、そこそこいいなというのはありつつも、決め手に欠けていた。それは客観的に欠けているというよりは、主観的に「私はこれが好き」という強烈な個性のエッジの問題じゃないかなとか僕も言ってました。
いわば「客観的な正解」を「探す」のではなく、「主観的な正解」を「感じる」作業で、そこは難しいことだったと思います。

でも、なんか今の日本って年々そうなってるような気がしますね。日本が国際競争力で垂直落下の30位まで落ちてる(この先もっと落ちるだろうが)のも分かる気がします。経済成長すればいいってもんじゃないけど、でも、あれってロマンの量に比例しますよ。未だかつてこの世にないものを、強烈な思い込み(ロマン)一発で、なにがなんでも作り上げるって馬鹿パワーがないと新しい時代は開けないし、画期的な新商品も生まれない。その時点で周囲にある客観的に無難な正解を求めるようなメンタルだったら、永遠に負け続けるでしょうね。

それは思い込みの差であり、ひいては自分の主観に対する自信の乏しさでしょう。ジリ貧になってくると、ますます自分を信じられなくなるから、どんどんスパイラル転落するという、まさにそうなってる気がする。

でもね、そんな動脈硬化した大人の事情に若い人が付き合う必要はないし、パーソナルな人生もそう。もっと自分の主観を肥え太らせて、自信をもって、ほとんど夢物語や妄想を口走ってるくらいの感じになってください。ドン引きされるくらいでちょうどいいです(笑)。でも、それが新しい時代を開いていくのだし、結局は世のため人のためになるのですから。

ということで、悩んだあげく高見さんが決めたシェアは、Earlwoodのおばちゃんと犬のおうちで、そこそこ遠くにあるんだけど、昔ながらの空気感のある住宅街でありました。そこまでお連れして、「ああ、こういうのが好きなのね」と僕もちょっとわかった気がしました。いいセンスしてるなー、これなら話も合いそうだなとか、見えてきたというか、それが大きな収穫だったような気もします。

写真ですけど、どうしても成松さんとかぶってしまうので、できるだけ別ヴァージョンを。

「シドニーの江ノ電」と僕が呼んでるライトレールのGlebe駅にて

Burwoodの駅にて

この時の写真、高見さん一枚づつ全部表情が違う(てか意図的に面白い顔をしてる)ので全部載せたいくらいです

シェア先で、もうこのワンコが異様に喜んでハイパーテンションになってて

 

 

Pocket