今回は難産しました。
今まで述べたことを全部頭にいれて、さまざまな観点から考察しつつ、方針を策定していくわけですが、これが一筋縄ではいかない。この種の「物の考え方」というのは、煎じ詰めれば人生哲学にも連なってきます。とある具体的なことを考えるためには、一旦、ものすごく漠然とした抽象的な考え方まで立ち戻る必要もあるからです。でもそれをやってると、書けば書くほどまとまりに欠けてきてしまうのですよ。
なので、先に結論だけ書いておきます。
直感一発で決める
いろいろとビザにまつわる逆風などもありつつも、それでも留学するかどうかですが、細かい損得話は一切無視して、やりたいか?やりたくないか?「だけ」に絞って決めてください。
直感的なものでいいです。というよりも、直感的な方がいいです。
ここをこうすればいくら得とか、ああいうやり方もあるとかいうのは下位レベルの話で、決定事項が上位になるほどに直感が大事です。
なぜ大きな物事ほど直感で決めるべきなのか?
って説明する必要がありますかね?
あなたも本当のところは分かってるんじゃないですか?
人間、本当に大事なことは「好き嫌い」であって「損得」じゃないです。この人と結婚したいとか、この曲が好きだとか理屈ではない。冷徹に利害得失を分析して最適解はコレですとかいうもんじゃないでしょうに(政略結婚とかするならともなくね)。またいかに利害打算的に最適解であるのが明白であったとしても、生理的に無理ってことはあるでしょうに。逆にどうしてもやりたかったら、万難を排してもやりますよ。法律で禁止されてもやりますよね。それが人間ってもんです。もう理屈じゃない。
理屈なんてエネルギーがないから実戦においては殆ど意味がないです。
真に行動を爆発させるエネルギーは、情動(感情)であり、平たくいえば好き嫌いです。理屈で人は動きませんよね。そして、あなたも動かない。
もし留学したいと思っているなら、それも「とにかくやりたいんだー」という駄々っ子のような感情があるなら、万難排してでもやるべき。それ以上深く考える必要がないのは、好き嫌いという結論が出てくる過程で、実はもう細かい計算もなにも無意識のうちに済ませているからです。その結果としての好き嫌いです。ただ意識の表面にそれらの感覚過程が理路整然と出てこないから、自分で自分に説明できないだけです。
考え過ぎると宜しくないのは、往々にして僕らはきちんと物を考えられないからです。本当ならば重要要素としなければならないことを、まるっぽ無視して、どうでもいい些細な小事にこだわったりするからです。また大事なことほど言語化できないです。言語化できるようなものは大した物事ではないと過去に散々書いてますが(「曖昧で要領を得ないものは常に正しい」とか)、言語化できないことは言語論理に乗らないから、理屈にも乗らず無視されてしまう。だから自分でも腑に落ちない妙な結論になったりする。
ということで、直感できめるべし。
決めた後、それにまつわるデメリットその他については、話が下位レベルで具体的なだけに、いくらでもやり方はありますし、代替案もあります。
というわけで、
はい、これで終わり~!一件落着!
にしても良いです。
しかし、その「直感で決める」というのが出来ないとか、わからんとか、その直感や好き嫌い感情、情動エネルギーそのものがヘタってて、とにかく何もしたくないとかそういう場合もあります。
そこで以下、雑談のように、ものの考え方について、思いついたことを書いておきます。ヒントなり、参考にしてくれたら幸いです。
計画よりもフォーマット
まずは二者択一の発想はやめよう。
日本の残留するか VS オーストラリアに留学するか等という2つに一つでやっていても決めきれないです。「どっちも」というのもアリですし、むしろそちらの方が基本じゃないかな。どちらか一つに決めなきゃいけないという法律もなければ、大自然の法則もないです。人生はうんざりするほど長いので、留学してもまた帰って来る場合がほとんどだし、永住権が取れても帰って来る人は多い。帰らなくても親の介護その他でなんらかの紐帯は日本との間に残る。二者択一になる場合を無理やり想定するならば、「余命一年」とかいう場合ですかね。絶対時間が限られているから一つしか出来ないという場合。
多くの場合、時間はあるのですよ。むしろありすぎるのが問題なくらいで。十年後、二十年後、五十年後、さらに死ぬ直前に振り返ってどう思うか。
だからといって、そんな先までキチキチ計画立てろって言ってるんじゃないですよ。そんな長期計画(◯歳になったらいくらの払い戻しとか)たてても、世の中何があるか分からんしね。それに細かなところまで計画を立てすぎると、逆に動きにくくなるという弊害もあります。前にも書いたように、適当なところでズバ!と動く苛烈な行動力も必要で、決めすぎると動けなくなります。
よって、別に細かく決めなくてもいいけど、ただ一応視野には入れておく、、、、ということですが、ここがわかりにくいかもしれないですね。ちょい解説します。
なんと言えばいいのか、「計画」ではなく「場」「フォーマット」です。
頭の中に、数十年にわたる広い作業場なり「敷地」を作る。その上で、そこに何を盛っていくかと考えた方がいい。
その広大な敷地からしたら、わずか数年程度のオーストラリア滞在なんぞ「一過性の出来事」「そんなこともあったよねー」程度のものでしかないです。そのくらいの広さの「場」を頭の中に作ってください。あまりに広すぎてスカスカになるけど、それでいいです。スカスカでゆるゆるに「遊び」があるからこそ、多少の失敗は屁でもなくなるし、だからこそ大胆に動くこともできます。
ManlyのNorth Headからシティ方面を望む
フォーマットというのは、「こんな感じでいこう」というコンセプトみたいなものですが、うーん、話を思いっきり卑近な例にとれば、「弁当箱の盛り付け」です。ゴハンはこのくらいで、メインのおかず(トンカツとか塩鮭とか)をここに入れて、あと刻みキャベツなど生野菜系、煮物もちょっとあった方がいいかな、漬物もいるよねとか大体のメンツを考えて、それぞれの配分と位置を考える。食べ物以外では、たとえばパーティやイベントの式次第でも、コンサートの曲順なんかもそうです。一曲目にドカーンとカマして、アンコールに一番盛り上がる曲をおいて、さて真ん中をどうするか、中だるみを避けるために半分くらいのところにこの曲で盛り上げて、各ソロパートをこう入れてとか。これらが「こんな感じでいこう」です。
その組み立てですけど、弁当の例でいえば、焼きそばやカレーのように「全部そればっか」系もありますし、幕の内弁当のように「ゴハンとおかず」系もあります。これを人生に置き換えると、前者(全部そればっか)は、空手バカ一代みたいに寝ても覚めても空手道しか考えていないという。だけど、そういうライフワークを見つけてしまった幸福な人はマレで、多くの人は、中高時代のように「勉強も、部活も、趣味も、恋も」という色々とりまぜたゴハンとおかずの幕の内系じゃないかな。
これを抽象化すれば、
(1)勉強や仕事など義務的な部分と(ごはん)、
(2)遊びや趣味など愉快・快楽部分(おかず)
と言えるかもしれない。
どんなフォーマット(弁当)にしようとも、この2つは常に同時存在してないとならないんじゃないかな。イヤだろうがなんだろうが(1)のベーシックなところはこなさないと生活できないし、かといって(2)の楽しみのパートがしょぼかったら、何の為に生きてるのか分からんという。(1)がダメだと経済的に破綻し、(2)がダメだと精神的に破綻する。
そこで出てくるのが、基本的な戦略、ゲームのルールみたいなもので、
(1)生活可能な状況は常に構築
(2)心身ともに最低限の愉快さ・快適さも常に構築
という二元一次方程式みたいな感じになるのかもしれないけど、そんな真剣に考えずに、大雑把に「2つあるのねー」くらいでいいです。
言うまでもなく、この2つは相反するものではなく、相互に関連しますし、場合によっては同じことになる瞬間もあります。お金のためにやってるはずの仕事が、やってみたら意外と面白く、今では生きがいみたいになっているってことは、あるでしょう。「生きがい」とまではいかないまでも、「結構面白いなー」「やってて良かったと思う瞬間」というのは、そこそこあると思います。それでお金も入ってくるんだから、かなり重なります。
だけど完全に重なるわけではない。大体において、いい時もあるけど、悪い時もある。良く感じられても、だんだん飽きてきたりもするし、もっと先に行きたいと思うこともあるでしょう。良い職場でも上司が変わっただけで地獄になるかもしれないし、吸収合併されてガラリと変わるかもしれない。またどんなに仕事が面白くても、明日から給料出ないよ、完全無料のボランティアになるとしても、それでもやるか?といったら、普通やらないでしょう。そこまで1と2が一体化するもんじゃないし、やはり何らかの2の快楽世界は必要です。
Pendele Hillのエスニック料理屋 スリランカ料理とか多いですねー
ただ、1の苦痛が少なく、楽しみが多いほど、2の要求水準は下がります(楽になります)。たまの休日に散歩したりするだけで十分ってこともある。しかし1がキツイと、かーなり刺激的な2の快楽をもってこないと釣り合わない。
そういえばバブルの頃、暴力団から金をトイチ等の超高利で借りて不動産案件をやってる人がいましたが、年収27億とかいってたけど(弾けたら無一文になったけど)、一発当たれば数億儲かる、それも1ヶ月以内の短期に儲かる。だけど、駄目だったときは、ヤバい筋から借りてたから真剣に命がヤバい。なので成功して数億入ってきたときは、会社あげて(数名だが)どっかのソープランドを一棟まるまる借り切って、一晩数百万とか馬鹿使いしてたそうです。「もうそのくらいの馬鹿をやらないと、精神がもたないんですよ」と言ってはりましたねー。毎晩寝ると、暴力団に追い込まれて海に沈められる悪夢をみて寝汗びっしょりで起きてとかいう感じなんだろうなー、知らんけど(笑)。
そこで思うのは、欧米とか特にそうだけど、大金持ちってなんであんなにペドとか変態が多いんだろう?本当かウソかおぞましい悪魔崇拝儀式とかさー、変態通り越してただの馬鹿じゃないのかって。悪魔好きならヘビメタやって、ライブでヘドバンかましてればいいじゃん、その方が平和的なのにねーって思うのだけど、もうそのくらいヤバいことをやらないと持たないのかもしれないです。よく「大抵の快楽には飽きて」とかもっともらしい説明があるけど、本当にそうかな?と思う。別に酒も食事もいくらやっても飽きないけどな。多分、同じ線上にある欲望がエスカレートするのではなく、まったく異質の快楽なのかも。もし見つかったら身の破滅だというギリギリのスリル、絶対に言い訳の出来ない悪を行ってるという背徳感が刺激になるんじゃないか。放火犯や万引き犯、あるいは盗撮やイジメがそうであるように、やっちゃいけないことって麻薬のように快楽中枢を刺激しますから。
だけど、そこまで強烈な2(快楽)を必要とする1(仕事)なら、そもそも1が間違ってると思うのですよ。まあ1は問題なくとも、何かの拍子に禁断の快楽に触れてしまったということもあるかもだけど、そこで抑制が効かないようなら、やっぱ1(平常の日常)になんか問題があるような気がする。
ところで(1)生活基盤は、別によい給料を貰う(生活費を稼ぐ)という手法以外でも整えられます。とりあえず実家暮らしであれば、だいぶ生活費は浮きます。ミニマリスト的に削ぎ落としていけば、そんなに多くを稼がなくても済みます。また、料理が上手、買い物上手、簡単な裁縫やDIYができるとかいう生活技術の底上げだけでも、支出はかなり減らせる。僕も、今は半分シェアみたいなところの変形1DKみたいなところに住んでますが、これまで7LDKというクソデカい家に20年も住んでたからさぞや窮屈な思いを、と思われるかもしれないけど、さにあらず。全然快適です。もうデカい家は懲りごりです。ざっと掃除するだけで2-3時間もかかって部活一回分やったくらい疲れ果てるわ、庭仕事してるだけで熱射病になるわ、絶えずどっかの部屋の電球が切れるわ、デカい分だけ物を探すのが大変だわ。「座って半畳、寝て一畳」っていうけど、いやホントに。
(2)の快楽部分ですが、こっちこそがメインで過去のエッセイでさんざん書いてますが、「どれだけ深い快楽を知っているか」こそが人生のキモです。上に述べたような麻薬的な反則系にいくことなく、平凡なことをやってるようで、本人は深い深い快楽に陶酔しているという。
どっかで読んだのですが、ハッピーになるためにお金がかかると思ってる人は、頭が悪いか、教養が足りないかだと。なぜなら、著作権切れの古今東西の名作は無料でネットでいくらでも手に入るからです。過去の天才たちが命を削って作った珠玉の作品が無料で読める。ただし、これらを理解できるだけの教養があればの話です。同じように、今はネットで大抵の音楽は聴けるし、図書館もあるし、無料の美術展もけっこうある。散歩も無料。夕焼けも夜空も無料。要はそれを鑑賞して、快楽を得られるかという個人の問題で、山野の草花や野鳥に精通していれば、「おお、こんなところに!」というエキサイティングな感興に浸れる。社会経済が多少わかっていれば、なぜこの地域は再開発が進まないのか?を考えて面白がれる。
あるいは、庚申塔の由来を知るだけでも、「おや、こんなところに」と楽しめるでしょう。庚申塔って、かいつまんでいえば、道教、仏教、神道がごちゃまぜになって、自分の体内の虫(スパイ)が自分のやってきた悪事を天帝にチクリにいく日(庚申の日)には、それを妨害するために宴会をやるというよく分からん風習で、庚申が猿なので三猿が掘られてたり、神道では猿田彦が祀られたり。明治維新、戦後と、迷信だとか経済優先とかで大分破壊されてしまったが、今でも全国に残っていて、みつけると「おお、よくぞ」と思う。お地蔵様でも、道祖神でも「なんで、こんなもんがあんの?」と思うと面白いです。
このあたりの「快楽の基礎体力(知力)」がしょぼいと、派手で扇情的な見出しにやられて、「今話題の」「流行りの」とかに煽られるとか、下らない承認欲求や虚栄心に釣られてお金ばっかかかるでしょう。とにかく砂糖をぶち込んで甘くしておけば口当たりは良いだろうという程度のレベルの快楽です。そんなのにひっかかるとしたら、よほど快楽の基礎体力が低いのではないか。逆に自分の基礎体力が満ちてくるほどに、世の中は快楽に満ちあふれていることがわかるでしょう。
こういうことって、今の若い人の方がよく分かってると思いますね。あんまり他人に釣られなくて、自分の好きなことを極めていくのがうまいんじゃないかな。最近の漫画なんか見てても、「よくそんなこと知ってるな」という知識の深さもさることながら、見逃しがちなテーマでよくぞここまで広げていったな、これは相当好きで掘り下げないとここまではこないよというネタが散見されるからです。最近のでいえば、うーん、例えば「本なら売るほど」という作品がそう思った。本が好き、古本屋が好きってのは何となくわかるけど、それで連作の作品にまで昇華させていくのは並大抵のエネルギーでは出来ないと思う。「いいよね」「あ、わかる」くらいの共感ネタにはなるけど、起承転結のある一つのドラマ世界にまで結晶化するのは別の話ですから。「古本屋マンガ」なんてジャンルなかったもんね。あるいは、サロンで紹介したけど「路傍のフジイ」がいいです。僕のこの一連の駄文を読んでるくらいなら、この作品の一巻だけでも読んだほうが分かり易いと思いますもんね。しかし、このテーマを作品にするという発想がすごいし、実現してしまう技術がすごい。
これらに比べると、高度成長やバブルを知ってる世代あたりまでは、まだお金で買うというフォーマットが強い感じがしますね。
ということで1も2も、そーんなにお金が絶対必要とか、老後のために最低2000万とか縛られることはないと思います。それよりも自分の生きていく基礎体力のようなものを養った方がトータルではお得だと思います。
なのでフォーマット的には、仕事選びせよ、留学や海外にせよ、遊びにせよ何にせよ、それでいくら儲かるかではなく、それで自分はどのくらい強く、すこやかに、賢くなれるのか?にフォーカスした方が良いと思います。
弁当盛り付けの比喩でいえば、何を盛り込むかもさることながら、栄養のバランスという違う観点でみていくことは出来るんじゃないですか?ということです。
朝焼けのChatwood高層ビル 撮影場所はLindfield
留学で強く、かしこくなる
話が抽象に流れたので(そうならざるを得ないのだが)、上を踏まえて留学云々を考えてみます。
留学をすることで、それで自分はどう強くなり、どう健やかになり、どう賢くなるかという栄養素的な観点でいえば、まず外国で孤軍奮闘するだけでかなり鍛えられます。これは金払って全部他人に整えてもらうか、基本自分でゼロから構築するかによって全然違うでしょうが、当然後者で(全部ゼロから自分で)。
次に日本にいるとどうしても考えてしまう世間(=自意識の投射)から自由になれるのが大きいです。世間の尺度に自分を当てはめて、浮いてるとか、ズレてるとか不毛な発想から自由になれます。なんせ周囲は比べようという気にすらならない外国人ばっかですからね。これは麻薬の断絶療法みたいなもので、よいデトックスになります。ただこれも、こちらで日本人村に入り浸って日本にいるのと同じ価値観でやってたら意味ないです。これで大分健やかにはなれるでしょう。
あと賢くもなりますよ。とりあえず留学してるんだから通ってる学校の内容については賢くなれるでしょうけど、それ以上に、勝手も何もわからない環境で「多分こういうことだ」と推測して、手探りで生きていくので、ものすごく頭を使ってます。それも受験みたいにどっかの回答を丸暗記とかじゃなくて、「さて、どうしたらいいでしょう?」という純粋に知能パズルのような局面が多々ありますから、ものすごい鍛えられます。僕もきた当初、こりゃ弁護士やってるよりもよっぽど頭を使うわ、知恵熱でるわって思ったもんね。
それともう一つ、言葉は全くわからないけど、でもこの人はいい人であるとか、生きていくための本能的な賢さが鍛えられます。単に頭が良いとかいう薄っぺらな話ではなく、もっと深い意味での「叡智」です。そのうえで、人間と人間がうまくやっていくためのエッセンスのようなものも学びます。こういうのは共通の型がない異民族同士の方が良い。同種間では型にはめておけば大過なくおさまるけど、楽をしてる分だけ、嗅覚や洞察力は劣化する。
真面目に毎日が真剣勝負のような環境で必死に1年もやってりゃ、かーなり強くなるでしょう。これに対価をつけるなら一千万円くらいの価値はあると思いますよ。それが、それ以下の費用で済むなら「買い」ですよ。一千万やそこらあってもろくなマンションも買えないし、ちびちび切り崩してもジリ貧だけど、自分の基本性能がぐーんと底上げされるなら、そのくらい後でいくらでも取り返せますから、投資効率としてはいいですもん。
日々の積み上げと投資効率
例えば10%底上げして、それが稼ぐ力に比例するとするなら初年度100の力は、2年目に110になります。そしてこのペースで地力をつけ続けられるならば、10年後に200なるのではなく、2を超える(倍になる)のは8年後です(214になる)。なぜなら複利で回るからです。そしてそこからすごいのだけど、シコシコ計策してたら一目瞭然の良いサイトがあったのでそこを紹介しますが、これによると3倍になるのが12年目(314)、20年目には673までになり、30年後には1745になります。
まあ、留学1年で10%増量したのが、日本に戻った途端またアホでヘタレの1に戻ってたら意味ないですけど、もしこの調子で登っていけたら、年収100万のあなたは30年後に年収1745万稼ぐ力をもつことになります。もちろん真面目に精進し続けないとといけないですけど。これは単なる数字のレトリックで、実際には諸事情あってこうはいかないでしょう。実力=年収になるもんでもないしね。
ただ全てに共通する基礎部分を強化することの意味はなんとなくわかると思います。投資っていうのはコレでしょう?100万投資して30年後に1745万円になるなら文句ないでしょうに。いかに凄いか、いかに後になって効いてくるかです。なので目先のいい就職先を探してるヒマがあったら基礎体力を地味に増やしてる方が効果が確実に期待できると思いますね。
スポーツでいえば、今日1キロ走っただけで死んでるあなたが、毎日10メートルづつ走る距離を増やすとします(これは単利)。今日1キロなら、あしたは1キロ10メートル。このくらいだったら出来るでしょう。すると、10日で100メートル増え、100日で1000メートル増えるから、約3ヶ月ちょいで二倍の距離を走れるようになります。この調子でやると1年後には3650メートル上乗せされるから、4.6キロ走れるようになる。ここで、もし毎日100メートルづつ走行距離を増やせるなら、1年後には37キロ走れるようになります。そして412日後(1年1ヶ月と17日後)には42.2キロになります。つまり今日1キロ走ってて死んでたあなたも、1年ちょっとでフルマラソン(42.195)走れるようになる計算になります。
だけど、これってそんなに人間離れした偉業じゃないですよ。毎日100メートル増やすだけですから。むしろ難しいのは100メートルではなく、「毎日」という部分でしょう。
オカズの増強論
また、弁当箱アナロジーや人生敷地論でいえば、基礎のゴハン部分をこうやって強化しつつ、おかず快楽部分の増強もあります。例えば、オーストラリアでぼけっとしていても、日本とは違った意味で気持ちいいです。なんもしてない、お金も全然使ってないんだけど、なぜか気分が良い、なんかしらんけど満たされる。日本の昼間に公園にいてもこうはならない。そもそも座るベンチがない、芝生もないって話もありますが、快楽部分でいえば大きなヒントが転がってますよね。
上がLane Coveの公園。下がシドニー大学の隣のVictoria Park
住んでた人ならわかると思うけど、オーストラリアでは快楽センサーが鋭敏になります。それは住んでる連中(オージー)がそうだからです。仕事のミスとか、クビになったとか(こちらでは日本的な正社員という概念がないから誰でも突然クビになるのは普通)、あまり凹まない。まあ凹むんだろうけど、そんなのバイトをクビになった程度の話で、人生のメインステージはいかに遊ぶか、いかに楽しむかだから、大した問題だと思ってない。少なくとも日本人ほど深刻ではない。その代わり、1日300件履歴書持って飛び込んでいくとかパワフルではある。「やりゃあいいんでしょ、やりゃあ」みたいな話なんだから、「やりゃあいい」だけで、それ以上深刻になる必要もない。それよりも、友達のバースデーにどんなサプライズを仕掛けるかを必死に考える。そういう連中に囲まれていると、幸せとはなにかが自然にわかってくると思うし、快楽発見センサーも鍛えられます。これがオカズの増強になっていく。
話はそれからだ
思うのですけど、留学するかどうかで悩んでいる時点で、すでに軽く病んでるのではないかと。別に悪い話でもないし、恥ずかしいことでもないです。誰かが最近言ってたけど、このクソ理不尽な日本で鬱にならないなら馬鹿であると、鬱は大人のタシナミであると。だったら、まず健康になろう。
ほんとにヘルシーになったら、何をやっても楽しいし、何を見ても面白いもんです。そうなってない時点でなんかおかしいですよ。「直感で決めろ」と冒頭で言ったものの、ある程度健康でないと直感は働かないです。あなたの頭と心のコンピュータやCPUがぶっ壊れている。電卓で1+1を押したら-8とか出てくるようなもんです。まず直せ、と。
僕の場合は、デトックスで(そんな言葉当時はなかったけど)、何しにオーストラリアに来たの?と聞かれたら “do nothing”と答えてました。それまでが多忙すぎてぶっ壊れているから、もう一定期間ボーっとして頭も心もマッサラにする。どっかの山奥の清流に半年くらい浸しておいたら、カラカラに干からびたこの感性も賦活するんじゃないかって。「話はそれからだ」と。
その後は(永住権とった後は)、前にも書いたけど、「丁寧に生活してみる」というのがテーマで、この10年以上、司法試験の受験だ弁護士実務だ、息抜きに深夜まで酔いつぶれるわ、睡眠時間削ってあれこれやって、、という、充実しているといえばそうかもしれないけど、実際には「雑」な生き方をしてきたなーと思ったのですよ。金で解決して、まじめに「生活」「生きる」という基礎的なことをしてこなかったから、「なんも出来ないじゃん、俺」って思った。
そこで、家のあれこれの補修やら、買い物やら、料理やら、車の修理やら、食って、寝て、楽しんでという基本中の基本動作をやりなおし履修しなきゃねーと思いました。もう「根性叩き直してやる」くらいの感じで(笑)。
下はシマアジ。魚を三枚に下ろすのを練習して、FshMarketでTraveryの良さげなのを買ってきて、刺身とタタキと寿司にしたもの。このくらいは出来るようになった。
というわけで、悩んでる時点で、もう既にヤバいとするなら、僕のようにまずは直せ、治せ、ヘルシーになれであり、その後の人生戦略も何も「話はそれからだ」と思います。
なんかわからんけど、しんどい、苦しいから逃げたいってのも全然アリだと思いますよ。「逃げる」というと聞こえは悪いけどさ、でも、今いる建物が火事になってたら、とりあえず安全なところまで「逃げる」でしょうに。野生動物だって、なにかの怪我をしたら、じっくり自然治癒できるような安全な穴蔵をみつけて、そこで回復するまでじっとしているでしょう。それを「逃げ」だから良くないとは言わないでしょうに。逃げるのが正解の場合も多々ありますよ。
もちろん、それを口実にして本当に逃げてる場合もあるでしょうね。たくさんあるでしょうねー。だけど、そんなの本当は自分でよくわかってるはずですよ。
というわけで、多くの場合、まず健全な感性と判断力が回復すること、そして気がついたもう動いていたというくらい行動力が戻ってきていることが何においても先決課題で、まずそこまでもってくるべしです。「話はそれからだ」ですよ。
もし一定きちんと努力しても完全回復は無理で、一生付き合うようになるのであれば、それはそれでOKです。それを前提にして、さてどうするか、です。後遺障害における症状固定日みたいなもので、これより先は治療しても良くはならない(その代わり悪くもならない)ってポイントで、「話」が始まればいいです。
でも逃げるにせよなんにせよ、「あそこに逃げたい」というのは直感的にわかるのではないかな。
また、「それからだ」と言っているのに、話を始めてしまってグチャグチャになってる場合もあるでしょう。ゆっくり休んで回復したらいいんだけど、焦るから将来の役に立ちそうな技術をとか、就職機会をとか思う。無理ないけど。だけど基本逃げたいくらいに弱っているなら、具体案のどれもこれも出来る気がしないでしょ?無理だよね。絶対安静とか言いながら、マラソン大会に出るようなもので、だから判断力が衰えているんだって。
それに、数年や十数年程度のロスなんか、長い人生ではなにほどのこともないです。敷地を広く取れと言ったでしょ。そういう時期は誰にでもあるし、ある方がいいです。「来し方行く末(きしかたゆくすえ、と読む)」という言葉がありますが、これまでの軌跡を振り返り、これからどうしようかなと考えることですが、そういう大局的な考察というのは、脳内CPUをかなり食います。論拠となるデーターはないんだけど、経験的に、細かいことで焦ってるときは、そういうことを考えられないです。かーなりぽっかりヒマにならないと、そういうことを考えられない。ワーホリのラウンドなんか、これをやりにいくようなもんだと思いますもんね。
かつての誰かのWH体験談で、行った先で暇な時間とか山程あるんだけど、「ヒマはつぶしてはいけませんねー」と述懐してるのがありました。周囲ではネットでYouTubeとか見てる連中が多いんだけど、そういう暇つぶしをしてしまうと、ぽっかり空いた時間でゆっくり考えることが出来ない。ビール飲みながら何時間も星空を見てるような時間が「大事なんですよねー」と言ってましたけど、ほんとそうだよ。
だけど、あんなことをやったり、こんなことで停滞したり、滑ったり、転んだり、あれこれやるんだけど、全部役に立ちますよ。気休めで言ってるんじゃなくて、本当にそうです。そのあたりも付言しておこう。
およそ無駄なことはない
「話はそれからだ」の「それから」になった時点で、何を考えるかですが、過去の経験や技術などの無形資産を結びつけていき、有機的に関連させていくって話なんですけど、これは「考える」までもなく自然にそうなりますよ。
趣味でも遊びでも過去にやったことは全部役に立ちます。また転職前の仕事だって十分に役に立つし、それぞれ見えない形で今日を支えてくれます。学校→資格→就職って、そんな積み木みたいにドライで大雑把なもんじゃないですよ。もっと生き物みたいに、相互に関連します。ちょうどお腹の中に腎臓だの脾臓だの沢山の内臓があるし、そこがダメだと死んでしまうんだけど、でも日常ではその存在が分からないのと同じです。
抽象的にいっても分からんかな。例えば僕の場合は、30年前に弁護士実務をやめてますし、バッジも返納してます。だけど、身についた弁護士時代のスキルは30年間ずっと役に立ってます。肩書的に信用力がどの程度あがるのかは分からんけど、スキル部分では激しく役立ってますよ。事件を受任し、解決するというのは、この不確定な世界で一定のリアルな現実を構築してなんぼですから、極めてソリッドでプラグマティック(実戦的)な発想と行動が必要です。出来もせんことを考えたりお論じても意味がない。Aという現実を実現するためには、これとこれが必要だからまずは調達しよう。でも大体、途中で ”shit happens always” だから、思わぬトラブルを予期しておいて安全係数を作っておこう。あと対人交渉やら、文章作成やら、未知分野にも臆せずに調べまくること(医療過誤で聞いたこともない病気について医学書積み上げて読みふけってそこだけ精通するとか)、全部あの時代に習得した技術です。パソコンというのを始めたのもオーストラリアに来てからですけど、そこから初期のHTMLを独学でやって早い時期からホームページをやるというのも、別に気後れも何もしなかったです。なんであれ「突撃じゃあ」みたいにやれてしまうのは過去の遺産です。だからやめても全然もったいないとは思ってないです。だって何も失ってないんだから。
だけど元弁護士のキャリアを活かしてこちらでも法律関係の、、とかは全然思わない。そういうことするならこちらでも資格がいるし、それを取るのがやたら面倒だし(まだゼロから大学に入らないといけない)、そもそもまた同じことやってどうする?だし。というわけで直線的、積み木的にはつながってないのだけど、有機的にはものすごく繋がっている。
他にも、かつて鑑賞した小説、映画、音楽、漫画などは今なお人生を豊かにしてくれているし、僕がエッセイなどで書く知識や発想の元ネタは遡れば漫画であったというのが多いです。知らないうちに学んでいるのですよね。部活の柔道だって、客観的には無駄で主観的にのみ意味あったと書いたけど、ほんとそうです。似たような体格で相手が格闘技未経験だったら、そうそう負ける気はせんし、足払いかけて態勢崩して、送り襟絞め(得意)で落とすくらいだったら今でもできそうだし。まず絶対にそういう局面になることはないんだけど、「いざとなったら」という潜在的防衛力があるから、知らんところも一人でノコノコ行けるという部分はあります。同じように子どもの頃の遊びもよく覚えていて、重宝してます。「どうなると楽しいのか」というアイデアの宝庫ですからね。オフの企画やら「遊び心」は大体子供の頃の資産です。同じことでもこうすると楽しくなる、というのは一種の発想技術ですから。
僕が根が貧乏性なのか、一回習得した知識技術を失くすのがイヤなんですよね。昔出来たことは全部今も出来ないと気がすまない。その代わり物財ゼニカネはあんまり執着ないんですけど。だってお金なんかそこへんに幾らでも転がってるでしょう?あとは正当な手続きを踏んで取ってくればいいだけでしょ?だけど自分で苦労して得た技術がなくなってしまうのは惜しいですよー。あなただって、10年間自転車に乗らなかったらもう乗れなくなり、またゼロからアレ(練習)をしなきゃいけないんだったらイヤでしょ。漢字だって10年間一回も書かない漢字は忘れてしまうとか(これは結構ありそうな気がする)。
それはともかく、このように全てのことは関連します。もうどうしようもなく関連します。人の脳というのは結構覚えているものです。だからこそトラウマになったり負け癖がついたりすると厄介なんだけど。どんな体験でもしておくと、あとで脳が勝手に役に立ててくれます。そういう意味では、基本「失敗」という概念はありえないのですよ。その場では無惨な失敗であったとしても、そこで学んだことが将来で大きく自分を救いますからね。ただ問題は、救われてもそのことに自分で気づきにくいことです。
なので、1年かそこら留学することで心身を出来るところまで回復しつつ、オルタナその2で述べたいくつもの選択肢を選べるだけの基礎力、とりあえずIELTSの7点くらいのレベルまではいっておく(軽く書いてるけど、すごい大変だよ)。そこまでいけば、あとは仕事にせよ、他の海外にせよ、帰国後の方策にせよ実現可能なエリアはかなり広がるはずです。逆にこのくらいの基礎力がないと、やっぱしんどいです。その分強力な手に職があれば話はまた別ですけど。
実現可能性が広い方が良いのは、あなたの「究極の一滴」がなにかわからないけど、それを満たす環境は、そんなにふんだんにあるとは思えないからです。あったとしてもゲットできないのなら悲しいですから、自分自身が大きくなって、リーチ(手の届く範囲)を拡大するしかないです。
でも実際にモノをいうのは、意外と根性のような精神論で、ちょっとやそっとではメゲない、クビになっても一晩寝たらケロリとしてるようなタフさであり、それはこれまでの経験が反映します。「あれに比べれば屁でもねえや」って思えるとか。ありていにいって、何かを結実するには、「幸運の女神のキス」みたいな不確定要素がどっかに介在してるもんです。それがいつどう訪れるのかさっぱりわからないのだけど、それでもやり続けてないと出会えない。だから徒労感に打ちのめされながらも、それでも続けていくという実行力がキモになったりします。
だけどそれが出来てしまう人は、そんな悲壮な顔で根性~というよりも、ハンティングみたいに盛り上がってて、絶対仕留めてやるとムキになってる感じがします。つまりイヤイヤやってない。釣りとか狩猟みたいなもので、全然駄目でも、「ちくしょう、おっかしいなー」とムカつきはするけど、落ち込みはしない。
結局基礎体力(精神力)の話に戻ってきてしまうんだけど、元気だったら出来るんですよね。むしろ「やらせてくれー」って感じで。「えー、やらなきゃいけませんか?」とか逃げ腰だったら、「話はそれからだ」レベルだと思います。
それに好奇心や楽しむ力が鋭敏になってるから、勝手にやりたいことやら、行きたいところがボンボンでてくるでしょう。増えすぎて収集がつかないくらい。よく分からなくても、ネットで調べるのがかったるいし、嘘も多いから、「とりあえず全部やってみますわ、その方が早いし」とかやっちゃうでしょう。そのくらいの人になれたら、あとは何とでもなるというのは分かるでしょう。
万事が相乗効果で、そのくらい元気だったら人にも恵まれるでしょう。女神遭遇率も自然と高くなるでしょう。
ということで僕も書いてて思ったけど、殆どの場合が「話はそれからだ」ですね。だって、あれこれプランニングしてもですよ、それが出来るためには最低限このくらいの実力(と元気力)はいるよなーと思ってきて、でもそのくらい出来たら、別に考えなくてもいいじゃんって思えてきたのですよ。勝手に思いついて、勝手にガシガシやっていくだろうな。そしてそういう人だけが道を踏破していけるんだから、やっぱ、まずはそこまで健康になることだし、それで十分ではないかと思うのでした。
そうなると問題はどうやったら元気が回復するか?であり、回復しそうな環境レシピーは、多分自分でも分かっていると思います。かつての僕のように、オーストラリアがリハビリに良さそうだと思えば来ればいいし。少なくともタイヤがひとつパンクしたまま走り続けていても、良い結果にはならんでしょう。多少回り道に思えても車を止めてタイヤ交換位はしておいた方がいいです。
Top写真でもあるこれは、North Sydney. 夏の夕方で、ちょうど仕事帰りの人々が出てくるあたり。写ってるお姉さんも仕事帰りかな。