人間の本性は悪なのか善なのか、性善説か性悪説か?
昔から書こうと思いつつ書きそびれていたテーマですが、これについては、「性善説に決まってるじゃん!」ってのが僕の意見です。あまりにも自明なので、いちいち論じることもないかなと思うくらいで。
こういう話題って、レトリック一つで何とでも言えるんですけど、でも論理的(?)にいって、性善しかありえないように思うのですな。
なぜか?
(1)本質が悪ならば、それを「悪」だと思わないこと
もし本当に性悪説だったとしたら、それを「悪」だとは認識しないと思うのですよ。いちいち「悪」という概念を作ってる時点で、もう性善じゃないかと。ちょい説明しますね。
「悪」とはなにか?ですけど、自分以外の他者の命を奪うことは「悪」といっていいでしょう。これ以上の悪はないといってもいい。
ならば、家畜を屠殺したり、鳥獣魚類を狩猟、捕獲して殺しているのはまぎれもなく「悪」ということになるし、また野菜や穀物(農業)も生命であることに変わりはないのです。米や豆などの穀物の多くは種子であり、次世代への命の継承であり、赤ちゃんみたいなものです。卵もそうだし、タラコもそうだし、赤ちゃんや胎児を食ってるようなもので、残忍非道も極まれリです。
だけど、それらについては特に「悪」だとは感じない。まあ、感じる人がベジタリアンになったりもするのでしょうが、ベジタブルも生命であるから、どこまでいっても逃れられない。悪いことをしていながら全然悪いとは思っていないのは、悪も極まる「極悪」なんだけど、極悪をやってるという自覚はない。
だからもし本当に本質が悪ならば、それが悪であるという認識もないだろうし、「悪」という概念そのものがないんじゃないか?ってことです。
ちなみに、僕らの農業漁業酪農などがひっくるめて悪であるなら、人類は生命維持はできなくなり、絶滅するしかないことになります。もっといえば、人類に限らず、多くの有機生命体は(植物以外は)、他の有機生命体を摂取して栄養分を補給するしかないわけで、そういう自然の生命現象や生態系システムそのものが「悪」であるというこになります。大自然は悪であると。
だけど、一般に議論されている性善説と性悪説は、そういうレベルの話ではないですよね?また、このレベルまで広げるなら、そこで話は終わってしまいます。植物以外は全部ダメ、全員死刑、はい確定!ってことで。でもそういう話(大自然は悪か?)をしてるんじゃない。
繰り返しになりますが、ここで言いたいのは、もし本性が悪であるなら、そして本性の中でも中核になる部分が悪に染まっているのならば、いちいちそれを「悪」だとは思わないだろうということです。「悪」という概念そのものが出てこないし、思いつかないなら、最初から議論にもならないだろう。
そして、「悪」だと思って議論をしているのならば、人間はそこまで悪に染まってるわけではない、ならば本性は善ではないかということです。
そして本性は善なんだけど、その本質にしたがって善ばかりやってるわけではない、わかっちゃいるけど中々実践できない、そのダメさ加減をもって「本質は悪だ」というなら分かるのだけど、これだと微妙にテーマがズレますよね。悪であるのと、意志薄弱のダメ人間であるのとでは意味が違うと思うのですが、これらはまた後に述べます。
(2)善あってこその悪であること
つまり「悪とはなにか?」ですが、僕が思うに、悪自体に積極的な定義があるわけではないのでしょう。
悪とは「善ではないもの」というアンチテーゼであり、善あってこその悪であり、悪は善の扶養家族みたいなものだと。
一方「善」はまだわかりやすいのですよ。
普通に「いいなあ」と思うことは大体において善です。他人のために力を貸したり、人に優しくしたり、何かの不正があったらそれを正すことであったり。善はわかりやすいし、直感的にわかる。
だけど、善をもって「悪いことをしないこと」という、善が悪の扶養家族になることないんじゃないかな?
単に悪いことを「しない」だけ、ただ生きてるだけの状態を「善」だとは感じないでしょ?悪いことを「しない」という不作為が善なら、活動量が少ない人ほど善になりうる。ひきこもりの人の方が善人ぽく、究極のただ生きてるだけの植物人間などは、毎日毎秒、善を行ってる(悪を行わない)大善人になりますが、そういう感じもしない。
一方、悪がなくても、善は成立します。この世の全てが善ばっかりだったら、いちいち「善」だとは思わないかもしれないけど、なにをもって「いいこと」なのかは感覚的に分かるでしょう。「人の情が身にしみる」という温かい感情や、世のため人の為に頑張る充実感などはあるでしょう。生まれながらにそういう善意の人に囲まれて育ったからといって、その温かい感情が損なわれるわけでもないです。「ほっこり」とか「ちょっといい話」とか言うけど、優しくて、温かくて、いい気分です。これは確かにあるし、それをもって「善」とするなら、別に悪を考えてその裏返しとか面倒なことをしなくても、直感的にすぐ分かる。
一方「悪」ですけど、これを積極的に定義づけようとしても難しいのですよ。たとえば「自己中心的で、ワガママで、他人を虐げてでもオノレの利益を追求すること」などでしょう。
ただし、それだけでは「悪」の範囲が広がりすぎます。だって、それじゃ入試を頑張るのは悪なのか、レースやコンテストや競争で勝とうとすることは悪なのかって話になるでしょう?そうではないよね。
自己中でワガママなのは、自己保存本能のなせるわざで、それはあっても問題はない。てか、あまりにも無いと死んじゃいますしね。また自分の努力や才能を思っきり発揮したい、他の個体と競い合って充実感を得たいという自己実現もまた、本来的にあるものです。悪いことではない。
問題は、でもそれはダメだろ、やり過ぎだろ、反則だろって場合です。試合の前に相手チームに毒を盛るとか、買収して入試問題をゲットするとか、それはダメ、それは「悪」だと思われる。これらを形式的にいえばルール違反であり、実質的にいえば正々堂々としてない、フェアではない、ズルいと感じる。
つまり、まず理想とする、あるいは当たり前とされる、公平公正な状況が概念され、それを破っている状態が「悪」だとするなら、まず先に「ルール=善なる状態」が観念され、しかるのちに異常事態としての悪が観念されるという論的な順番になることになります。
この意味で、悪はしょせん善の影のようなもので、善になりそこなってるものだと。
つまり積極的に悪を定義づけて「意図的に善なる価値体系、秩序(ルール)を破壊すること」としたとしても、どこまでいっても「善(なるルール」が先行して、悪はその従属物に過ぎない。
従属物ごときが「本質」というのは、ちょっとおかしいだろ?ってことです。
(3)結局感情
善なる価値体系、秩序ルールが観念されるといっても、じゃあそれらはどこから生じるの?といえば、結局はナマの感情でしょう。
ああ、いいな、素敵だなという感情が大きければ「善」になり、イヤだな、クソだな、ムカつくなという感情になれば「悪」と認識される。それだけのことです。
では、その感情はどこからわいてくるのか?ですけど、多くはごく自然なものでしょう。自分に対して好意を寄せて、よくしてくれた人には恩義や親愛感を抱き、こちらもよくしてあげようと思う。逆に、自分の大事にしている家族を殺されたら、殺した奴を殺してやりたいと思う。ごく自然にそう思うでしょう。これだけだったら自分に利益だったら善で、損だったら悪という利害打算なんだろうけど、しかし、一銭の得にもならなくてもやることが多いです。捨て猫を拾ってきたり、迷子で泣いてる子がいたらしかるべきところまで連れて行くとか、重い荷物をもってあげるとか。
それらの感情はどこからくるのか?どうやって整理するのか?については、分からないです。わからなくてもいいんじゃないかなー、むしろ分かろうとして無理やり体系づけて、理論化しても、どこかで絶対無理がでてきて破綻するような気がしますね。真剣にやりたいんだったら哲学や倫理学でもやってください。
強いて言えば、かつてのエッセイで小松左京論を書いたときに(発刊した第二集にも収録)、紹介した「あなろぐ・らぶ」という小説に出てくる、「エントロピーに対する局所的勝利」とそれに対する「共感と感動」だと思います。
なんでも崩壊、拡散、均一化しようとするエントロピーの絶対支配する全宇宙においては、秩序は、それ自体が反宇宙的であり、反逆的なものです。でも、生まれながらの初期設定で秩序に価値を感じるのが生命体なので、秩序には共感する、良いと思うし、美しいと思う。美の本質、感動の本質は秩序=数学的整合性である。雪の結晶を見たらその美しさに感動する。そもそも生命自体がありえないくらい膨大緻密な秩序の塊であり、絶対虚無の大宇宙の平均からみれば奇跡のような存在。なので似たようなものを見ると、おお仲間だ!と感動する、、、んじゃないかって話なんだけど、これは哲学的過ぎる話なので、ここまでね。
付言するに自然に生まれた感情を善とするか悪とカテゴライズするかですけど、これも人により、時代により基準も内容も変わったりします。封建時代には、上の身分に逆らうことは大罪であり極刑にされたりします。でも、「くそお、今にみてろ」と下剋上の誓いをたてる人もいます。とりわけ征服されて奴隷にされている状態であったら、反抗することが善であるように感じるだろうし、征服者側としては自らの安全を脅かすテロリストとして扱うでしょう。立場や事情で180度変わるのは珍しくない。
そんな曖昧模糊としたもの、あるいはご都合主義の極致みたいな感情を前提にして、人の本性はどっちか?とか語っていても、あまり意味がない、、というか、泥沼にハマりそうな気がします。
ちなみに善が「ほっこり」感情だとしたら、悪の原感情はなにかというと「いじけ」「ひねくれ」「けっ」だと思います。これは最後に書きます。
(4)生産性という観点
しかしですね、ここで「生産性」という観点があります。一般に善は生産性があるけど、悪にはないです。僕としては、これが性善説の一番の実質的根拠になると思います。
皆で幸せになろう、皆で分かち合おう、弱い者は皆で助けよう、という善性ベースの感情があるから、集団や組織が形成されて実際に動くわけです。農業一つ、狩りひとつとっても、収穫したら、あとは仲間をぶっ殺してでも独り占めにすればいいんだーって、誰もが考えていたら、馬鹿馬鹿しくて集団作業なんかやってられないです。そんなことやってるなら、最初から野盗になって収穫を終えた村を襲えばいい。実際にもよくあったでしょう。
だったら野盗がそのまま天下を取ったのかというと、全然。それぞれ勝手にやって、どっかでドジって、処刑されたり、ぶち殺されたり、裏切りあって全滅とかしてるわけです。悪党の末路はみじめなもんです。なぜかといえば「生産性がないから」です。そもそも「収穫を奪えば」というけど、全員野盗だったら、誰も生産をしないので、結局全員餓死するだけです。
ということで、もし人類が野盗のような性悪であるなら、とっくの昔に絶滅していたと思いますよ。でも歴史的な事実は、洞穴に住んでて、ただ無力に野獣に食われるしかなかった原始時代から現代まで、一貫して組織を洗練させ、生産量を増大させてきているわけです。この一点をとっただけでも、生産性のある善ベースに話が進んできたと思うわけです。
なるほど確かに、野盗がより大きくなって地域の豪族になり、小国家になり、さらに大国家に吸収されていく流れで、そこでは常に悪の論理で、食うか食われるかの権力闘争があったし、今でもあるし、これからもあるから、やっぱり悪こそが本質だという説もわかりますよ。
だけど、それをやれるのは、一握りの逆エリートみたいな悪に特化したパーソナリティの場合で、絶対数ではかなり少ないです。圧倒的大多数は善ベースであり、少なくとも表向きは善ベースにしておいた方がよくまとまるし、よく働く。いつ誰かに裏切られるかも、殺されるかもと24時間緊張し続けて、しかもそういうリスクがリアルにあって、それでも大したストレスが溜まらないって人は、かなりの特異体質であって、そんなにいません。
大体ですね、悪の権化のような反社組織内部においては、一般社会以上に「善」が基本になっていたりするのですよ。暴力団でも、ナチス国家でも、内部的には一般社会と変わらない美徳を唱える。ここが不思議というか面白いところで、学校では遅刻はするわ、サボるわ、先生には逆らうわの札付きの不良があつまって暴走族やチームを作るのだけど、チーム内では学校以上の厳しい秩序があります。集会に遅刻したり、上に逆らったら、「てめ、舐めてんのか」でボコボコにされる。学校の校則や体罰よりも何倍も厳しい。親分や仲間のためには自己犠牲をいとわない忠誠心とか、これはまんま一般美徳です。また攻撃性バリバリの国ほど、内部的には「愛国心」とか高らかに歌い上げます。つまり、皆をまとめるには、善的なものの方が生産性があるということです。
どんな悪の結社でも、その組織内部でも、人事が公正に行われるのは必要です。エコヒイキや、宮廷政治の腐敗が度を過ぎてくると、誰も忠誠心なんか持たないし、敵方と通じて売国した方が儲かるなら、誰でもそうするから、結局長続きはせずに崩壊する。なので、軍団を強くしようと思ったら、結局美徳や善性を使うしか無いのですよ。信長の徹底した実力主義は、家柄身分差別をされていた大多数の人材には魅力的に映ったでしょう。あれだけ古来汚職ばっかの中国王朝でも、こと科挙に関しては徹底的に不正がなかった(出来ないようにした)と言われてるから、全国な優秀な人材を集めたのでしょう(でも上が腐ってるから結局は清王朝のようにコケるんだけど)。
暴力団には任侠道という裏返った善的価値観があります。また昔の日本の会社みたいな、ウェットな家族主義があります。なんせ「親」分ですもんね。家族内部においては絶対的な信頼がベースになっており、それが彼らの組織の強さでもある。逆に言えば、組織としての強さや生産性を上げようとしたら、善的な価値観をもってくるしかないのですよ。
比較的ドライな最近の半グレやビジネスタイプの反社の世界であっても、「契約は守る」という美徳が守られなかったら(約束してたいた報酬が払われないとか)、関係者も愛想をつかすし、ライバル組織に潰されるでしょう。つまりウェットであろうが、ドライであろうが、生産性を上げる、組織としてまともに機能させようとするならば、やっぱり善的な価値観、信頼ベースをもってくるしかないのですよ。でないと、コストがかかって仕方がないです。
極論をいえば、「できるだけ楽をして豊かな暮らし」を望むのならば、性善説的な信頼ベースの社会を作るのが一番安上がりです。国が落ち目になって、皆が飢えてきて、他人を害さないと生きていけないとしたら、非常にコスパが悪くなります。買い物をすれば騙され、釣り銭をごまかされ、帰路に強盗にあい、商品を輸送すれば列車強盗のように襲われてたら、まともに流通も商売もできません。商品を搬入するだけで一個中隊くらいのバリバリに武装した軍事力がいるとなったら、やってられないでしょう。
(5)悪か、馬鹿か
話戻って、じゃあ人間が性善なら、なんでこんなに世の中がクソなんだよ、悪いやつがはびこってんだよって話になります。
それは究極的には善であっても、「究極的に」の話であって、数千年の人類の営みと歴史をみると、そう考えたほうがなにかと辻褄が合うだけのことだからです。
実際の話で言えば、多くの人は、なにが善であり、どうすればいいのかは、大体において一致するでしょう。国が違っても、同時代の人類だったら、大体似たような価値観になるし、X(twitter)でも、ほのぼの系の動画に特化したアカウントも多いし、それにレスするのは全世界規模です。
だけど、「わかっちゃいるけどやめられない」と言いますが、人間、意思が弱いから、思った通りにできない。もし全員意思が強かったら、ダイエット本や教材や教室は存在しないでしょう。延々と手を変え品を変え新しいメソッドが出てくるジャンル(英語学習法でも)は、基本、「わかっちゃいるけど出来ない」という人間のヘタレっぷりを表していると思います。
皆のために頑張らなきゃ、家族のため、自分のために頑張るんだと思ってるし、その心に嘘はないんだろうけど、ああしかし、眼の前の誘惑にはたやすく落ちてしまうのが人間というものです。また、せっかくちゃんとやっていたとしても、ちょっと周囲から誤解されたり、思ったほど評価されなかったら、いきなり拗ねて、いじけるのも人間です。
こういう可憐なダメダメ星人をもって人間だというなら、そうでしょう。そして、そのヘタレ具合をもってして、「悪」だというなら、人間は悪でしょう。
しかしね、悪であることと、馬鹿やヘタレであることは違うでしょう。マンガの「キングダム」で、韓非子と李信が議論してましたけど、悪と馬鹿は違う。
(6)開き直りとゴムまりの原理
この世の呪ったり、人の不幸がメシウマになってたり、幸せそうなカップルや他人を見てるとグチャグチャにしてやりたくなり、「皆死ねばいいんだ!」的な感情は、瞬間瞬間では誰でも持つことがあると思います。でもそれって、うまくいかないから拗ねてるだけ、イジケてるだけ、ひねくれてるだけでしょ。
前半で、悪とは善の反対という付属的なものに過ぎないと書きましたが、感情面でも同じで、本当は皆みたいに楽しくやりたいんだけど、なぜか出来ないとか、うまくいかないので、いじけて、癇癪起こしているときに生じる感情が「悪」的なものだと思います。善になりそこなったので、悔しいという。それだけのことじゃないか。
このように、性悪説とかいうと、「この世の深遠な真理」を述べているかのような大仰さが伴うのですが、そんないいもんじゃないと思いますよ。単にいじけて開き直ってるだけ。本当はそうしなきゃいけないんだけど、でも面倒くさいとか、能力的に出来ないとかで、運が悪いとかで、イジケて、キレて、ばっきゃろー、やってられっかで開き直って、「どうせ人間なんか」とか「誰でも一皮むけば」とか、そういう流れですよね。
人間なんか、いよいよになってみたら、誰でも自分が可愛いんだ、誰でも裏切るんだーとかいっても、「いよいよとなったら」と言ってる時点でダメです。じゃあ「いよいよ」にならなかったら善なのか?「いよいよ」なんて滅多になりませんよ。一生生きて何回あるんか?って話です。僕の貧しい人生を振り返っても、そんな「いよいよ」ってあったかなあ?と思いますもん。圧倒的大多数の場面で「いよいよ」になってないなら、これは性悪説を言ってるようで、実は性善説を説いているのではないかとすら思われます。だって殆どの局面で善(少なくとも悪ではない)のですからね。
「いよいよ」の事例で、例えば子供を人質に取られて不正行為をやれと脅迫されてるような場合、あるいは生まれながらの境遇がひどすぎてもう盗みをやる以外に生きるすべがないとか、ほっておくと殺されるしか無いから、先に殺すのだとか。しかし、そういう極限状況においては、誰もが意思を拘束され、あるいは物理的に選択肢を奪われ、そうするしかないでしょう。
でも極限状況にまで追い込んでおいて、「やっぱり人の本質は」って言うのはおかしいですよ。本質というなら、なんもない平穏で普通の状況で発揮されてなくちゃ。極限状況に追い込んだら、なんでもアリでしょう。
それは、伸縮性のあるもの、例えばゴムまりをプレス機に挟んで、加圧して、平べったくして、「やっぱり、ゴムまりの本質は平べったいんだ」と言ってるくらい幼稚な議論だと思います。
もっと簡単に言えば、もし子供を人質にして脅迫して、「いいことをしろ」と命令したらどうですか?やれお年寄りの重い荷物は持ってやれ、御婦人には優しくしろ、ボランティアで困ってる人を助けろとか。それで脅迫されている人が善なることをしたら、「やっぱり人間の本質は善なのだ」と言えるか?って話です。
結局これって、行為者本人がどうかではなく、脅迫してやらせている人間が何を命令するか?によって悪になったり善になったりするだけの話でしょ。もう既に本来の構造から離れている。つまり極限状況なんか引き合いに出してる時点で、レトリックとして成立しないと思う。
以上、いくらでも書けるのですが、性善説か性悪説かでいえば、もう性善に決まってんじゃん!と思いますね。何を議論することがあるのか?ってくらい。
ただ性善だとしたところで現実の問題は特に解決はしないのですよね。「本質」とか「究極」とかいう概念は、数十年、数百年、場合によっては数千年スパンでだんだん明らかになるものだと思いますから。
その意味で、現実的な議論でいえば、性馬鹿(ヘタレ)説の方がいいです。
以前、「性賢説と性愚説」ってシリーズのエッセイを書いたけど、本質が馬鹿(ヘタレ)であるなら、猿でもわかるように、馬鹿でもわかるようにシステムの組む方が意味があると思います。あるいは多分この辺で力尽きて辞めてしまうだろうなーというのを織り込んで、巧妙なシステムにするとか。それはまた別の話ですけど。
以上、オンラインサロンで書いたものをリライトしてあげておきます。
写真は、あんまり関係ないけど、Macquarie Cemetery(こちらの大きな墓地=大体美しい)の一枚。「ほっこり」するわねーってくらいの感じで。