錦織さんのインド物語(Part5) ~彼氏と家族と

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Part1から続いておりますが5回目は、「なぜインド?」に関する2つの理由=(1)自分自身のチャレンジ、(2)彼がインドにいた、があるわけですが、今回は後者の部分について書いていただきました。

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<彼との馴れ初め>
彼とは2010年に、初めてインド旅行したときに知り合いました。
勤務先にインド人の人がいて、「女性が1人でインドを旅行するなんて危ない、現地でサポート出来る友人を紹介するわ!」と言うことで、現地に住んでいるインド人の方を紹介いただきました。その方には、「インド滞在中に困ったことがあれば電話しよう」ぐらいに思ってました。
しかし、到着してすぐ連絡があり、飛行場まで迎えに来てくれ、さらに宿泊場所が危ない場所にあるから「僕の家に止まれるか確認するよ」と。。。
正直、「え?大丈夫かな?」とびびりました。
1時間ほど車を走らせた後、自宅に到着しお父さんを紹介されました。お父さんはお医者さんでイスラム教徒でした。「自分の家だと思ってゆっくりしていきなさい」と突然訪問した私を
笑顔で歓迎してくれ、お母さんが出してくれた自家製のチャイが甘くて美味しくてなぜか直感で「これは何かの縁だな」と強く感じ、その家に2週間ほどお世話になることになりました。

滞在を決めて家を案内されたときに、「これ僕の弟のうちの一人、ここに住んでるから仲良くしてやって〜」と新たに紹介されたインド人の男性が、後にお付き合いすることになる、私の彼でした。

この家族の方々には初対面とは思えないぐらい「最高に私をもてなして」くれました。
デリー観光、「タージマハル」へ自家用車で泊まりがけの国内旅行などアクティビティもそうですが、精神的なもっと深いところで「インドに来てくれてありがとう」と心遣いに溢れていました。自分たちがいいと思うものを徹底的に「全力で紹介してくれた」んですね。私には「忘れられない旅」になりました。

<友人関係から恋人関係になっていく経過>
旅の最初に初めて彼と会った時、たまたま「ハウルの動く城」のテーマソングを練習しており、一瞬で音楽話に花が咲き、意気投合しました。
彼が友人たちとオリジナル曲を作ってて、その練習にコーラスで参加することになったときに「全体の音を聞きながら、個々への的確な指示とアドバイス」をしている彼の姿に惹かれました。周囲への気配りや、言葉より行動で示すところになど、どんどん惹かれていきました。
旅の終盤、自分の気持ちだけでも伝えておこうと思って「あなたが好きだ!」と言ったところ、彼も私のことが気になっていたと返事があり旅の最後にお互いの気持ちを伝え合い、私は日本に帰国しました。
帰国した後に、スカイプや国際電話で毎日連絡を取るようになり、その後半年して私が再度インドへ旅行へ行き、、、と段々とお付き合いが深まっていきました。

<インド滞在に彼の存在がどれぐらい影響したか>
100%影響したと思います。
彼の存在もですが、彼の家族に出会ったことで「こんな人たちが生活している国で働いて、自分も生活したい」と感じるようになりました。
初回のインド滞在の後、「インドシック」になって、約半年後もう一度インドを訪れてたときに、「帰ってきた感じがした」のも大きかったです。

インドで就職活動をした際に、バンガロールという南インドにある企業からもオファーをもらってました。インド国内で国は同じですが、彼の住んでいるデリーから飛行機で2時間半離れているので、迷いました。
「仕事内容・将来性・収入・ワクワク感・生活面」という5つの軸で比較した時、「仕事内容と生活面」でデリーの方が「安心できた」ので結局、デリーにしました。

<インド滞在中に彼氏がインド人であることでどんな影響があったか>
ヒンディー語が話せなかったので、最初は一人でやろうと思っていた「家探し」「家具とガスを揃える」こともローカルのインド人との意思疎通が全く取れず、彼や彼の友人に本当にお世話になりました。
「賄賂は権利」という文化が生活に密着しているのを実感したのもこの時で、最初は全てに腹を立てていましたが、段々と「言ってもしょうがないんだ・・・本気で伝わらない」と途方にくれました。
でも彼らは「本当に大事なこと」を心得ていて「好きなことに時間をかけるのはいいけど、どうしようもないことは考えすぎるな!」と、励ましたり、時に笑いのネタにされたりしながら、精神的に参ってしまった私を支えてくれたと思います。

<お母さんのこと>
彼のお母さんはフィリピン人で看護師さん、3人の子供(長女+長男+次男)を持ち、気丈で、お世辞などは言わずはっきりしているタイプなので厳しく見えますが、常に本質を捉え、愛を持って人に接する人です。

お母さんは、約35年ほど前、出稼ぎの先サウジアラビアの病院で当時お医者さんをしていたお父さんと知り合いイスラムに改宗、そして結婚、後にインドに拠点を移します。

親戚も知り合いもいない、ヒンディー語は話せない、インド料理も作れない中で、小さな子供を抱え、壮絶なスタートだったと思います。それでもお母さんは、お父さんの親戚からヒンディー語を身振り手振りで学び、お父さんからインド料理を学び、お父さんのクリニックで看護師として24時間緊急対応もこなしていました。
お母さんはお産の手伝いをする看護師経験があったので、インドで数百人もの子供のお産に立ち会って来たそうです。イスラム教は、子供を多く持つことを良いこととするのでお母さんはお父さんの自慢の奥さんでした。

約10年ほど前に、子供が大好きだったお母さんはお父さんに「小学校を作ってしっかりした教育の場を提供したい」と、クリニックに併設して学校を設立。校長先生になります。
看護師であり、校長先生であり、母であるお母さんが、最愛のお父さんを亡くしたのが約4年前。体調不良が続くお父さんをお母さんは最後まで懸命に看病しました。

亡くなって後、失意の念で元気のないお母さんを私は毎週末会いに行くことを決めました。
4年間、ほぼ毎週末通いました。お母さんと私の距離はぐっと近くなり、異国で暮らす私の相談相手として友人のように心を打ち解けていきました。

3人の子供をどうやって一人で育てて行くのか不安でしょうがない、とお母さんが私の前で泣いた時、愛する人を失った辛さと家族への責任感を持つ母の強さ双方を感じました。お父さんのいないクリニックをお母さんが一人で切り盛りする中、人手不足でお産を手伝ったことが数回あります。知識のない私ができることは、いきむのを諦めようとする妊婦さんを励ましたり、痛みに気を失いそうになる妊婦さんを叩いて起こしさすったりしました。

無事に生まれる子もいれば、すでにお腹の中で亡くなった状態で出てくる赤ちゃんもいました。経済的に育てることができないのに妊娠してしまい、堕胎するには大きくなりすぎて出産をし里親に出すことに決めた妊婦さんの場合、お母さんが赤ちゃんを取り上げてすぐに毛布に包み、妊婦さんには顔を見せずに、里親さんに赤ちゃんを渡すこともありました。「見ると情が移るのでもっと辛いから」とお母さんは妊婦さんに言いました。そういう場合、お金がなくて出産費用を妊婦さんが出せないことが多いですが、少しでも妊婦さんが支払いができた場合には「里親」となる方に、ささっとそのお金を渡していました。「ちゃんと、妊婦さんの分まで一緒に大事に育ててね」と。

お母さんは2年前からクリニックを信頼できるお医者さんに引き渡し、今は校長先生の仕事に集中しています。実は、私の母もこの小学校を尋ねたことがあって、4年前から「足長おばさん」として毎年日本から送金し、そのお金で毎年1回文房具や遊具を寄付しています。

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(途中で田村の雑感)
いや、これは彼の話というよりも、彼のご両親の話ですね。すごいわー。特にお母さんが。フィリピン→サウジ→インドという遍歴にしても。新興国などは「昔の社会」が残ってて、日本の昔もそうだったらしいけど、資産も知能も高い地元の名家のようなところが、ノブリス・オブリージュ的に頑張ってたりするのだけど(「頑張る」という意識もなく当然の義務のように思ってるのだろうが)。お父さんにせよ、お母さんにせよ、なんと言えばいいんだろう、「巨大な人格」って言い方があるけど、それに近いのかな。古典中国的にいえば「大人(たいじん)」。
それは身分社会の光と影でもあるのだが、日本も昔は結構そういう人が多くて、今でもなんたら「記念」財団とか「記念」病院とか言うのは、その名残である場合が多い。

この両親の血をひいているなら、彼氏くんも、温かいハートと聡明な知性をもちあわせているのでしょう。まあ、惚れるわなと(笑)。でも、「なぜインド?」という最初の疑問は解けました。人として信じて良いところだったんでしょうね。その逆もありますよね。「ここにいるとどんどん人格がスサんでいくような気がする」「擦り切れていく」とか。この場合は、その真逆で、大いなる信頼と安心があったのだと推察されます。


ただ、若い男女がそんなにお伽噺的な、人格物語で終始するというのもリアリティがないわけで、実際にはあれこれあったそうです。そのあたり本稿とは別に雑談として書いていただいたんだけど、差し支えない限度で以下に載せます。

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昨年退職を決めた4月に島根の両親に彼とのお付き合いのことを伝え、いつか連れて来なさいって話になっていました。(が、当面は仕事が多忙すぎてすぐは実現せぬまま日々追われ)
12月のギリギリまで仕事してあとは帰国、って思っていた時に、彼の方から「日本に行ってみたい」と相談がありました。「日本という国をみて、両親に会ってちえの家族に会ってこれからのことを決めたい」と。

滞在中は、彼も初めは興奮してましたが、徐々に初海外&日本という異質な環境、連日私の友人へ紹介され疲れはピークに。東京に滞在するだけでお金は湯水のように消えていくし・・・。彼のストレスも私のストレスも頂点に達して彼は「もう1人でインドに帰りたい」と1月末(滞在2週間が過ぎた頃)飛行機のスケジュールを早めて帰ると言いました。もう彼の手元にそんなにお金も残ってなくて・・・両親に挨拶に行くバスに乗る直前でした。私は頭が真っ白になって、「なんのために日本に一緒に来たのか」わからなくなっちゃいました。「結婚したかったのに。彼とはうまくいかないのか」とボンヤリした頭で思ったのを覚えてます。

その時、田村さんも知っていると思うけど、寺田さん(私にアプラックを紹介してくれた友人)のお宅に2日間お世話になりました。あったかいお風呂に入って手料理を食べさせてもらって、生まれた間もない寺田さんの第二子を抱っこさせてもらって、「彼の紹介」と「自分の仕事が一旦終わってお疲れ様!の帰省」をごっちゃにして帰国したことを怒られて。笑 とにかく島根のみんなは首を長くして待っているんだから、と。

実は、私が家族にきちんと説明せずにただ連れて帰るとしか言ってなかったので、私の姉から寺田さんに相談が入ったみたいだったんです。寺田さんの方から「『5年間病気もせずによくうちの千絵を面倒見てくれました』とお礼を伝えるつもりで彼をもてなしてあげてください」と事前に私の両親に伝えてくれてたんです。なんというか、本当にいろんなことが走馬灯のように感じました。「お世話になった彼をこんな形でインドに帰してはいけない」と、彼を説得して彼と2人で島根に帰りました。

そしたら、島根では両親が信じられないほどウェルカムで、彼の存在も私の帰省も心の底から歓迎してくれました。会った瞬間涙が止まらなかった。会いたかったんだなって分かりました。

↓島根に帰省したときのインスタグラムの写真

https://www.instagram.com/p/BeNubQ4gTuC/?taken-by=chie.nishikori

同じくインスタグラムから母の日に上げられていた写真 すごいいいです。

Happy Mother's Day….!!!

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