幸せ蛍

「考えると鬱になる」メカニズム

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幸せ蛍
「考えると鬱になる」メカニズム

「この先生きてても、あんまり面白くなさそうだしなー」と感じるときが誰でもあると思う。
まあ、そこそこ仕事はしてるし、それなりに面白くもあるけど、これが一生続くのか、代わり映えもしないな。かといって他に転職するにしてもこれといったものもないし、何だかんだいってまた同じことの繰り返しだろうなっていうのは見えてるし、歳を取る分どんどん可能性も減るからリスクも高くなるし、なんだかなーという。

30代から40代くらいにミッドライフ・クライシスがあると言われてますが、なんとなくやり尽くした感はあるものの、まだ何もやってない感もあるし、かといって何をするかというとこれといってワクワクする事柄も思いつかないし、ダラダラと時が流れるだけで、このまま老いぼれていくのかしらね、あーあ、つまんねーな、という。

さて、では、なぜそう感じるのか、なんで面白く感じないのか、ワクワクしないのか?その原因について考えてみました。

それは多分、面白いってなによ?ワクワクってどんな感じ?どういう条件が揃うと楽しくなったりするの?という部分で何か大事なものをミスってるからだと思う。

一言で言ってしまえば、そーゆー具合に考えたら、どんなものでも面白く感じない。面白くなるわけがないです。だから、そーゆー具合が良くないのだよ、と。「そーゆー」って何よ?といえば、抽象化し、言語化し、理屈で考えることです。理屈で考えてると人生は非常につまらなく、虚しく感じる。てか「考える」という精神作用がまず良くない。考えたらつまらなくなるに決まってるじゃないか。

たとえばバイクでぶっ飛ばして、ひゃっほーとかやって楽しかったとしても、あるとき理屈で考える。そんなバイクで飛ばして「何になるというのだ?」とか、「いい年してバイクで喜んでる場合じゃないだろ」とか、早く走ってそれが何なの、早く行きたいなら新幹線でも飛行機でも乗ればいいんだよとか。

音楽でも絵画でもどんな趣味でも、こんなんしてても所詮売れないしな、素人の自己満足でしかないしな、こんなことやってて「何になるんだ」とかね。

この「何になるんだ?」というあたりがクセモノで、なにかしら「意味のある」「意義のある」「ずっしりした結果、栄光」「成し遂げた感」などなどにいってしまうのですよね。それが無いとまるで無意味であるかのように考えてしまう。「しがないサラリーマン」「うだつのあがらない」「一生底辺」とかね。

アホやなーと思うのは、別に何かエライものになる必要もないし、意義も意味も無くてもちっとも困らないことを忘れている点です。自己満足、大いに結構。自分が満足したなら、他に何がいるというのだ?

大体ですね、人が「興に乗って」いる状況(楽しい、ハッピーという心理状態になるとき)は、非常に他愛のない物事でそうなるのであって、何やらもっともらしい意味や意義に満ちている必要はない。いっそ「しょーもない」ことの方が人は楽しく、ハッピーになれる。もっと言えば、ハッピーというのは「感じる」ものであって、考えるものではないのだ。考えるための素材にはなりにくいのだ。

「考える」という内実をよくよく見ると、いろんな素材を組み合わせて建築みたいに構築していく作業なんだけど、そこに登場する「素材」というのが、「世間的に意味ありそうなあれこれ」ということですごい限定がかかってしまう。言ってみれば、人々に称賛されそうな、華麗な、あるいは崇高なサムシング。あるいは表現しても「通りが良い」なにか。例えば地味にシコシコにやるだけであっても「市井の一隅を照らす」とかカッコいい表現があるとかです。遡れば進路指導で、文系か理系かとか、公務員か民間かとか、くだらない二分法でやってたけど、その延長ですね。「もっともらしさ」に騙されるわけ。

「プロフェッショナルと呼ばれるような確固たる職業的実力をつけて、世間に認められ、堂々と収入を稼ぎ、押しも押されぬ、、、」なんてのは、わりと考えがちなところですが、つまりはそういう「素材」ばっかで構築しようとする。好きでやってる音楽でも絵画でもなんでも、やってて面白かったら、それでもうOKであって、いちいち売れるとか、有名になるとか、どうでもいいことでしょう。だけど、「素材化」する過程でそういう具合に捻じ曲げてしまう。それに「押しも押されぬ」になったらなったで、一生これかよ、同じことの繰り返しという虚しさが待ってるだけだよ。

そういう愚かしくも詰まらない精神作用を、僕らは「考える」と呼んでいるに過ぎない。
だからこそ、「そーゆー具合に考えて」たら、面白くなるはずがないよ。
だって、面白さの素、楽しさの原子というのは、そういう考える素材には入ってこないんだから。もとから「つまんねー素材」だけをつかって組み立ててるんだから、そりゃあ詰まらなくなって当たり前だわさ。

それに、考えるにあたっては物事を抽象化するんだけど、「こーやってあーやって、どれも同じじゃん」ってなる。それが馬鹿だというのだ。仕事でもなんでも、同じことの繰り返しのようでいて、繰り返してない。APLaCの一括パックだって、同じことに繰り返しという意味ではまさにそうなんだけど、別に飽きないよ。だって人が違ったら全然違うんだよね。やってることは同じでも。漁師でもシェフでも同じようで毎日違うはず。天候により、湿度により、素材や対象の変化により、同じであるはずがない。そこに面白みがあり、感動もある。だけど、抽象化して「金もらってアレやって」と考えてしまったら、面白い部分がすっぽり抜け落ちてしまう。

というわけで「考えたら」鬱になるよと、そんなもんに騙されてはあかんよと。
ああ、だが、しかし、騙されるのだよ。

まーでも、人生の前半10-20ー30代前半くらいまでだったら、そういう素材でもいいです。
若い頃は、自分に自信がないから、溺れる者は藁をも掴むのように、なにかしら他人・世間に誇れるようなものが欲しい、実績が欲しい、「俺もなかなか捨てたもんじゃないな」と思いたい。
なんせ自信ないですからね(笑)、なんかつっかえ棒がないと自分なんか消えてなくなっちゃうんじゃないかって気もする。「絶滅危惧種とは私のことだ」みたいな。

その一心で「何事かを成し遂げる」ということに異様な執着を見せるのはわかりますし、あながち無駄でもないです。なんせ必死でやるから、体験する物事も大量になるし、それだけ多くの物事を見てくれば、どんな人も多少は賢くなる。おとなになれる。お尻に火をつけて走らせるようなものなんだけど、結果オーライで走った分だけなんかは得られる。

だけど、30代中頃くらいからは、だんだん見えてきますからね。新鮮味もなくなるし。要領でできちゃったりする部分もあるし。何をしても、なんかしら繰り返しのような気もするし。かといって、ここが人生の最高到達点、ここから先は下るだけとかいうのも釈然としない、まだなんかありそうだ、だけどわからない。

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僕もその呪縛が解けてきたのは、30代後半、人生の折り返し地点を通過したあたり。このあたりは、エッセイの前身であるシドニー雑記帳の最後の連載部分「僕の心を取り戻すために」というブランキーの曲名をもじったタイトルで10回位書いた。

「ある日寝てたら枕元でカシャッと音がした」というのは、そんなに頻繁ではないけどよく聞く話で、人生折り返し地点通過しました、行きの半分を終わって、これからは帰りの半分だよって地点を感覚的に表現したもの。本当に音が聞こえるという人もいるが、その感じ、なんかわかるって人もいる。

この先どうやって生きていこうかと考えてた。
日本で司法試験を志して合格、弁護士として稼働。そのあと徒手空拳で海外にいって起業してメシが食えるところまでいく、、という「冒険物語」を2つほど経験し、もう人生2回分やっちゃいましたみたいなとき、じゃあ次は?となったときに、何も浮かんでこない。

折しも後半戦。なんか前半と同じようなことやってても違うんじゃないかと思ってた頃です。じゃあ今度は東南アジアに行こうとか、そういう話でもないよなーと。てか、そもそも「何事かを成し遂げて自己実現」とというのは「もういいや」ってことじゃないのかと。これから先は、もっと大人になって、「何もやってないけど自己実現」しなきゃねって。
大体、難しい試験に受かりましたとか、ステイタスのある仕事でとか、海外~とか、そういう「ギミック」はもう要らんでしょう。あれは、まだ人生経験の浅いお子ちゃま仕様であって、お子様にも受けるように、大きな花火がドカンと上がって、大怪獣がウギャーと出てきてって話であって、話を盛り上げるための賑やかしにすぎないんじゃないかと。

別にそんな大仕掛けはいらんわ、そんな大騒ぎせんでもええわ、そういうことじゃないわと。
大体何事かを、それも途方も無いドリームを実現しなきゃ、自己実現しないってもんでもないだろう。もっと小さなことでも自己実現はできるだろうし、どんどん大人になっていけば、別に何もしなくても自己実現できるようにならなきゃ駄目だろとか、息を吸って息を吐くだけで深い満足を得られたり、単に存在するだけでもOKになる。そのころには自己なんか実現せんでもええわ、実現もなにももうココに存在してるじゃないかって感じなってるかも。そして究極には、別に俺、存在しなくてもいいかもって感じになって「ゴール」というか解脱というか、そこまでいってから「逝ってよし」になるのではないかと。まあ最後の方は未経験でわからんけど、いずれにせよ段々派手な仕掛けはいらなくなるね。

なぜそう思ったのか?といえば、純粋に体験的にそうだからです。

で、ここが「騙される」って話なんだけど、例えば部活で全国大会で優勝しましたとか、ベンチャーやって大金持ちになりましたとか、スーパーな配偶者を得てスーパーな結婚生活で幸せになりましたとか、そういう「お話」というか、プロジェクトというか、冒険・成功ストーリーがあり、それで皆頑張るし、それはそれでいいんだけど、でも、「そのこと自体でハッピーになってるわけではない」のだ。

ある程度ムキになってやってた物事、司法試験でも、ギターでも、海外永住でもなんでもそうですけど、それを志して、頑張って、達成した「から」、深い満足感を得られたわけではないですよ。司法試験も最初受かった当初はやったー!的達成感があったりするんだけど、でも密かに「なんか違うな」「思ってたほど楽しくないな」「あれ、なんだろこれ」とは思ってました。

じゃあやらないほうが良かったのか?といえば、そんなことないです。やってよかったですよ。だけど、何が良かったの?何が何十年後の今でも残ってる「人生の記憶資産」のような宝石になってるの?といえば、受験やってた日々の生活、その小さな小さな、折々の体験であり、記憶です。

それは例えば、図書館や研究室で日曜日でもお構いなくガシガシ勉強してて、勉強仲間が肩をちょんちょんと叩いて、「メシ、行かない?」って誘いがきて、「おしきた」って出かけるシーン。
「今日はどこいく?」「”くれたけ”かな、ワンパタだけど」「ああ、あそこのおでん定食のおでんいいよな」「大根とかズブズブだしね」「でも日曜やってる?」「やってんだよ、あそこだけは」とか、くっちゃべりながら、誰もいない森閑としたキャンパスを連れ立って歩いてたとき。

遠距離恋愛してた彼女に会いに(金がないから)全部ドンコーで福井までいって、また最後の列車に乗るために福井駅で別れを告げたときの風景とか。

模試の結果がでて、ひどい結果がでて超落ち込んでる友達を皆で慰めているときとか。
「俺、もう死にたくなったよ、なんでこんなミスするかな」「それ普通ですわ」「”死んでしまえ答案”なんか誰でも書くんだよ、要は本番で書くか書かないかだよ」「今ココで書いておけばその分本番のリスクが減ったじゃん」とかね。

そんな小さな記憶、小さな体験が良かったのですよ。受験はじめた頃は幸福度ゼロで、半分くらい合格水準に達すると幸福度50で、全部合格すると幸福度100ってもんじゃないのよね。そうじゃない。全部同じ。最初も最後も同じ。

その他の事柄(海外とか)もみんな同じです。
別に進行状況によって幸福感が決まるもんでもない。また達成したかどうかなんか実はどうでも良かったりする。
ギターでも、スポーツでもなんでもそうだけど、別に優勝しなくたって、コンテストにでなくなって、うまくならなくなって、最初の一音、最初の一歩からもうゴールなんだよ。だって「やりたいことをやっている」んだから、その時点で既にハッピーでなきゃ嘘だろ。その全ての軌跡、全ての一挙手一投足がゴールなんだよな。他人に褒められようが、貶されようが知ったこっちゃないだろ。だからいいんだよ、いい年こいてバイクでぶっ飛ばしてても、いい年こいてアイスクリーム買ってときめいていても、幸福とか楽しいとかいうのは、その瞬間に楽しいって感じるかどうかであり、それが全てなんだから。

つらつら折り返し地点で思ったのは、俺が幸せになったり、楽しくなったりすることは、別にそんな大きな仕掛けは要らないわということ。それで過去の人生記憶をスキャンしていくと、どれもこれも符合するものばかり。

子供の頃、つまり遊びの天才だった頃の自分がやってたこと。くっだらないことばっか。
横断歩道で、白いところが安全地帯で、白い部分だけを踏んで進まないと駄目とか勝手に決めて、ピョンピョン飛んでたけど、あれって何の意味があるのか?というと、まったく無意味。もう心地よいくらいに無意味。でも、楽しい。てか、意味があったら楽しさが「濁る」んだわ。

修学旅行でも、理屈的・物語的にいえば、「寺社仏閣を見学して見聞を広める」とかだろうし、大人的に回顧すれば「青春の一コマ」だろうけど、実際にやってるときにキャハハハ!とやってたのは、もっとくだらないことですよ。だれそれがバスによって吐いたとかさ、夜の雑居部屋で○組の誰それが好きとかいい合ったりとか、そんなこと。

部活だって、大会が近いとかあったけど、過ぎてみればそんなのどうでも良くて(残ってなくて)、今でも覚えてるのは、部活のあとに仲間と一緒でちんたら歩いて、くっだらないことしゃべてったこと。また、必ず帰りにコーラの自販機(当時、チェリオという安くて量が多いのが人気だった)をゴクゴク飲むのが一日で一番幸せとかだったり。

バンドでも舞台でも、おわったあとの打ち上げのビールが最高に幸福で、それを飲むためにライブやってるようなもんとか言うけど、ほんとそうだよ。サラリーマンでも、おわったあとの居酒屋の「ぷはー!」のために生きてるようなもんって。

思うに、楽しさとか、幸せとかいうのは、夕闇にふわふわ浮かんでる蛍みたいなもの。巨大な空間に、ぽつんと存在している光みたいなもの。煎じ詰めれば、小さな宝石みたいなもの。

それはどんなところにも生じる。なぜなら人はどんなことからも喜びを見出すことが出来るから。
だから、大きな絵巻物みたいな「○○成功物語」というそのものは、その宝石なり蛍なりを配置するための「下地」でしかない。別になんでもいいのだ。やってなくても別にいいのだ。成功しないと幸せなれないと思ってるなら、成功してみたらいいです。思ってたほど楽しくないのがわかるはず。

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そう思ったほうがいいと。
なぜなら、その方が世の中が素直に見えるから。

この比喩は昔書いたものがよく書けているのでそのまま引用します。
https://aplac.net/memo/kokoro02.html

 あるマラソン大会でゴールポストが置かれている場所は、例えば行政上の表示でいえば「○○市○○町○○番先路上」と表現されるでしょうし、東経○○度○○分でも表せる。また郷土史の観点でいえば作家の○○がよく散歩をした所かもしれないし、米騒動が起きた地点かもしれない。誰かの個人史的に言えば、「8歳の頃、チャリンコ乗ってて車とぶつかった場所」かもしれない。経済的に言えば、バブル崩壊後この界隈では最も地価下落の激しい地域かもしれない。植物学的にいえば、なんたらという花の北限自生エリアかもしれない。オカルト的に言えば地縛霊が集まりやすいところかもしれない。「そこ」には人の営みに合わせて無限に意味がある。

 でも、マラソンやってる選手にとってみれば、そんなの何の意味もない。ただの「ゴール地点」としての意味しかない。「ゴール」地点は「ゴール」という以上の意味はない。 それはスタート地点であろうが、10キロ地点であろうが同じです。

 それが悪いと言ってるのではないです。ただ、ある「ゲーム」をやってる人間にとっては、何らかの現実に接しても、自分だけのメチャクチャ限定された主観的な意味づけしかしないこと、それ以外の意味や現実についてはまるっぽ見えなくなりがちだいう話をしているのです。

 僕から見る現実世界というのは、全て自分の決めたゴールに行くための「環境」であり「素材」です。だから、ファミコンの画面に映し出される映像と同じなんです。ファミコンの画面で海のシーンが映し出されても、それは本当の海ではないです。当たり前ですけど。でも、現実の海を見ても、「海のシーン」みたいにしか認識されなくなってきたら、これはマズいと思うのです。自分がそれじゃないのかと思うようになったのですね。なんでも記号化しちゃう。

 旅行だってレジャーだって、「行った」「見た」「とにかく潰した」「一応押さえておいた」ということばっかりに意味が偏ってしまって、その現地の現実に自分がとっぷり浸かって染まってくるわけではない。そういうことってあるでしょう?

 頭の中に青写真書いて現実はそれをトレースするだけの意味しかない、というのはそういうことです。それじゃ本当の意味で現実に触れていないのではないか、と。生きてるリアリティが薄くなってしまうんじゃないか、と。観念的とか自閉症とかいったのは、そういう意味です。

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うん、なかなかいいこと言うじゃない?って、98年10月だから24年前に書いたことですよね。

壮大な冒険物語やサクセス・ストーリーは、幸福に関しては、実はほとんど意味はないことを知れば(意味があるのは、どこにでも生じる蛍のような現象)、上に書いたような「ゴール」という主観的呪縛もまた解けていく。

そして、主観的な呪縛が解けてから見る世界は、びっくりするくらい鮮烈で美しい。
「この世界は、こんなにも美しい」、、、というのは良く言われることですけど、なにかすごい体験をするか、すごい考えまくって峠を超えたとき、そう見える。

平安時代の貴族だったか、山道のわきに咲いている小さな露草みたい植物が可憐な花を咲かせ、もじどおり朝の露を抱えて、ふるふると震えている。その鮮やかな青色(すみれ色だったかな)、そのたたずまいに深く感動して、「ふと涙した」と。

最初読んだときは、まだ若くて馬鹿だったから、なんで小さな雑草の花くらいでいちいち泣いてるんだよ、ばっかじゃねーのみたいに思ってたんだけど、だんだん意味がわかってきた。

こんなところに、誰も見てないのに、それでも懸命に花を咲かせ、ここまで鮮烈な色彩、ここまで可憐な造形、まさに自然の奇跡のような物体が普通にこんなところにあるとは、これはいったいどういうことだ。なんという儚い存在感、そして何という否定し難い存在感。ああ存在することは、ただそれだけで偉大なことであり、感動を呼び起こすに十分であり、そこに偶然であれ必然であれ自分がその場に居るという不思議さ。

物語や理屈というのは、いってみれば承認欲求というか、「俺が俺が」の我欲我執であり、それにたやすく目は曇り、美しかるべき本来の世界が見えなくなる。

もちろんそういう我欲爆発的なスチュで燃えるのはある。先に書いたことと重複するけど、若いうちはわりとそれが多いのだろうし、それはそれでいい。目が曇らされ、競走馬のように一本道視野になってるからこそ、クソパワーも出るのだし、だからこそ面白さも快楽も生き甲斐もある。だけど、それって不自然なゲームなんで、何度もやってると、「またか」って飽きてくるのよね。で、なんだかなーになる。

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以上、長くなったのでここで整理をすると、

(A)幸せはふと瞬間「感じる」ものであり、「もっともらしい素材」を組み合わせる「考える」作業には登場しにくい。詰まらない素材だけ使って考えてるから、何を考えてもつまらなくなり、鬱になりがち。

(B)何事かを成し遂げる冒険、成功ストーリーそのものでは幸せにならない。その過程で、ちらほらと夕闇の蛍のように点滅する感情こそが宝石なのである。

(C)そんなもっともらしさにとらわれて、主観的なゴールとパースペクティブだけで見ていると、この世界の美しさに見逃してしまう、そして(B)の蛍が光るチャンスを減らしてしまう

ここからさらに発展させていくと、、、

結局、よりたくさんきれいな「蛍」が光るかどうかであるならば、人生設計やこの先何をやって生きていくかというのは、その蛍の繁殖場みたいな環境整備なのかもしれないですね。蛍も飛ばないような環境になってたら、そりゃつまらんわ。

じゃ、どうやったらホタルが飛ぶかですよね。
一気に結論を言ってしまえば、やりたいことをやるしかないんじゃない?それが成功するかどうかは関係なく。ただ、やりたくないことをやらされているって状況は、心がそんなにハツラツとしないから、感受性も乏しくなって、きれいなものを見ても感じない。露草を見ても涙しない。そんな心が押しつぶされるような環境だったら、河川にヘドロや産廃汁を垂れ流してるようなものなので蛍も飛ばない。

「やりたいことを」というのは、その程度の意味です。「やりたいことなんか見つからない」というのはよく聴くし、そりゃそうだろうとも思う。だから、「絶対にやりたくないってことを、無理やりやらされる」というのを最悪だとしたら、いかにしてその濃度を薄めるか、と考えてもいいです。

同時に攻撃は最大の防御というか、馬鹿みたいな野望であっても、それをやってるときは楽しいですよね。実際には、かなりひどい目にあったり、不運続きで踏んだり蹴ったりだったりするんだけど、根っこの部分が、やりたいことだったら、そんなにこたえないし、蛍も飛ぶ。
海外ひとりぼっち体験(ワーホリとか)をしたらわかると思うけど、そりゃいいことばっかではない。てか単純に数で勘定したら、ひどいことの方が多いかもしれない。辛いこと、大変なことも多い。だけど根っこに「行ってみたかった」というのがあったら、それもこれもそんなに病むほどつらくはないでしょ。また、そういう悲惨な体験をしてる最中に、意外とホタルがよく飛んだりするんだよ。深夜の山中で車がエンコして野宿確定になったときに、「うわ、なに、この月、すげえ」ってなったり、月夜の森が子供の頃に読んだ童話の挿絵みたいだったり。

何度もいうが成功しなくてもいい。土壌整備にすぎないんだから。自分が自然に快活になれるような環境を作ってるだけであって、それ以上に、それで生計がたつかとか、それで自慢できるかとか、そんな全てを満たそうと思う必要は全く無いです。そんなもんないし。

サロンでやってる、セーフハウスやズブ素人農業とかなんだかんだも、「ホタルが飛びそうな感じ」というのが設計思想みたいなところがあります。なんかポンコツそうだし、想定外のハプニングばっかそうだし、だけど別に成功しなくてもいいという土壌はあって、って。

長くなったのでこのくらいで。

※冒頭の絵は、川瀬巴水 – 大宮見沼川 [生誕130年 川瀬巴水展 郷愁の日本風景より]借用しました。フリー素材を探してたら見つけたもので、作者没後50年経ってるのでフリーになってるものです。

※サロンに投稿した文章ですけど、最近エッセイぽいの表に出してないから、こっちにも書きます。

 

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