望月瑞希さん1年目WH終了

ラウンドから帰還して、1年目WHを終えてもどってきた望月さん。いつもニコニコ笑顔の秘密は?

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バタバタしててまた間隔が開いてしまいましたが、過日(もう一ヶ月以上前ですけど)、ラウンドから帰ってきて1年目終了という望月さんが遊びにこられました。

やあ、一年たつのは早いもので、「あれ。もう帰るの?」という感じで。
そういえば、去年の6月、僕が日本に帰省オフをして、その後ドバイとスイス旅行をして帰ってくる7月上旬、その帰国日の1日前に望月さんはオーストラリアに来られたのでしたねー。出迎えと初日のレクは、ピンチヒッターで小平希さんにお願いしました(看護師という同業属性もあるし)。

この仕事やってると、「そうか、あれからもう1年たつのかー」ということを、毎月のように言ってるので、年単位での時間感覚が養われます。1年に限らず、4ヶ月学校いってラウンド行きますって場合も、「そうか、もう4ヶ月~」と同じようなことを思う。
思うだけではなく、同時に「この1年俺は何をやっとたんだ?眼の前の彼/彼女に比べて成長したのか?」という自省の念も湧いてきて、それがメリットというか、痛いところというか(笑)。

さて、望月さん、来たばっかの頃ラウンド出撃の頃 と過去記事が残っているのですが、どの記事のどの写真をみてもにこやかに笑っている、ほんとに笑顔が素敵な方なのですが、写真だけではなくリアルにもこんな感じで、常にほがらか。行動的にも、メンタル的にも安定してて、ほとんど危なげがない感じでした。

まあ勿論いろいろ滑った・転んだ・擦りむいたってのはあったんだろうけど、基本、ワーキング and /or  ホリデーのうち「楽しいホリデー部分」がメイン。実際にはシドニー時代も、またファームも、ひっきりなしに働いているんだけど、トータルには「楽しい時間をすごす」「エンジョイ」ってのがベース。

来るにあたっても、なにかしら修業目的(強くなりたい~、海外就職~とか)があったというよりは、「スキューバやるぞー!」みたいな長期ホリデー的なノリだったそうです。結果的にいえば、ほとんどスキューバはやってなかったそうですけど、それでも楽しかったと。まあ、そんなもんですけど。誰かが過去の体験談で書いていたけど、「やろうと思ってたことはほとんど出来なかったけど、来る前に思っていたのより100倍は楽しかった!」と。

ラウンドは最初ケアンズの方にいってファームをやり、その後はずっとタスマニアに行ってて、そこでの暮らしが良かったそうです。
ファームがどうとか、収入がどうとかいうのもあったんだろうけど、ほとんどそれは話にでてこず、アジア系の女子たちと一緒のシェア、というか合宿みたいな共同生活が良かったらしいです。

彼女の言葉で印象に残ったのは、姉妹のようにきゃっきゃやってた仲間がみんな時期が来て離れてしまった日、部屋に一人ぼっちになったとき、「私、そんなホームシックとかなるタイプじゃないし、実際こっちきてもそんな気分になったことはなかったんだけど、その日だけは寂しくて、さみしくて、涙でてきた」って言っておられました。

逆に言えば、それだけ日々の生活が楽しかったんでしょうね。

でもそれ、なんか分かる気がします。
小学この頃林間学校とかやったとき、ほんの2-3泊なんだけど、親元から離れるときにちょっとセンチな気分になり、現地に着いても最初は戸惑いというか、どんなもんだか知るのが先というか、おっかなびっくり的なんだけど、すぐに慣れてしまって、最終日(といっても二日目か三日目なんだけど)になったら、もうその場所とも皆とも離れがたくなってて、「帰りたくないよー」と逆にそっちでセンチな気分になる。

この話からは、それだけ人間の適応能力というのは凄いのだ、「住めば都」というのは本当だってエッセンスが抽出され、それはシェア探しとかでもよくいいます。

でも他のエッセンスも抽出できて、「暮らす=生活する」「誰かといっしょにいる」ってことは、本来すごく楽しいことなんじゃないかなーってことです。

オフとかでも泊りがけのものを企画します。去年でも古民家泊まったり、二回ばかり津市の稲垣邸に皆で合宿したり。またオフじゃなくても温泉旅行とか泊まるのが前提な旅行はちょっと楽しい。
あれ、何が楽しいんかな?っていうと、別に「泊まる」部分が大きいというよりは、一定の時間があって、いろいろ「やるべきこと」があって、それを皆で話して、それぞれに分担したり、協力したりしてやってるのが楽しいんじゃないか。
「晩飯どうする?」とか、「ちょっと、買い出し行くわ、他に行く人?」とか、「手の空いてるヤツから先に風呂入って」とか、集団生活的なことを断片的にやるじゃないですか、あれが面白いんだろうな。

なんでそんなもんが面白いのかよくわからんし、あんなもん日常雑務じゃないかって気もするんだけど、その場の非日常感がいいのか、そこそこ気の合った連中となんかやるのがいいのか、ゆるーい感じでの共同作業がいいのか。でも、もっと根源的に、人間というのは集団的な生き物で、焚き火の周りで、生活のあれこれを話し合ったり分担するのが「性に合っている」生き物なのかもしれません。
なんつっても、天邪鬼で、同調圧力もさして気にせず、集団行動があんまり好きではなく、単独行動を好む僕ですら、楽しいって思うんだから。
確かにですね、スイカとか皆で食ってると楽しいよね。一人で食ってもうまくない。花火も一人でやっててもねえって気もする。不思議だよね。

で、前から来るべき日本崩壊というか、金融資本主義の矛盾炸裂でムチャクチャになったときに備えてのセーフハウスだの言ってますが(ずっと構想はあるのよ、あとは実行だけで)、あの原点は、そこそこ気のあった連中だったら、ただ単に「暮らす」というだけで、人生のかなりの部分の満足を得られるんじゃないかって気がするからです。そこそこ気があってないとダメですし、「そこそこ」で十分なんだけど、生活するってことは、本来めちゃくちゃ面白いことなんじゃないかと。だって、そこが面白く感じるようになってなかったら、その種は絶滅するでしょ、進化論的に。

それにトシ取ってきて特に思うのですけど、別に生活してるだけでええやん?って。
「食ってちょん」とか、生活に追われてそれ以上の楽しいことまで手を出す余裕はないとか言いますよね。とにかく生活部分は、灰色というか、およそそんなに楽しくなくて、必要だからやる、やらないと死ぬ、やるしかないという義務的なフォーマットでものを考えたりするじゃないですか。それ以上に人生の甘く楽しい果実は、さらにその上に特別な出費をすることで買うのだ、というフォーマット。だから生活に追われて貧乏してたら人生楽しくないという。

そうかな?なんか違うんじゃないか?。
むしろ、生活してる部分に楽しさの焦点がくるように考えたほうが良くはないか?と。そしてもし生活部分がそんなに楽しく感じないなら、感じるようにしたらいい。誰といるかとか、どこにいるかとか、どういうライフスタイルなのかとか。
少なくとも、生活部分だけではハッピーになれず、それ以上稼がないとハッピーになれないってことはないんじゃないの?と思います。てか、生活部分が楽しくなかったら、そのあといくら金払って豪遊しても、そんなに楽しくないんじゃないのかなー。

望月さんの話から外れているようですが、彼女がこの1年足らずに感じたのは、そこなのかもしれないです。非日常的なイベントの楽しさよりも、ほこほこする日常の楽しさ。

そして彼女が、いつ写真を撮ってもじつにいい笑顔でニコニコしているのも、その日常幸福センサーみたいなものが、彼女の場合研ぎ澄まされているんじゃないかな、ひまわりが太陽の光をたっぷり浴びているように。いやあ、見習わなきゃなーって思った次第です。

さて、今はもう日本の筈の望月さんですが、二回目も取得してるので、ほどなくして戻ってくる予定だそうです。もう帰ってきてるのかなー。

  ちょいシリアスな顔も、コレクション的に。

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