2024年日本帰省記(12) ヒロコさんの盗塁オフ~自由闘争記 

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「盗塁」と戦友

名古屋のヒロコさんが多忙な業務の間隙を衝いて京都まで遊びに来てくれました。

彼女は2015年だったか、僕のエッセイを読んで「仲間だ」みたいな感じで、わざわざ京都まで出てきてくれて、お話しました。それが最初で、折々のオフにも参加され(今回の名古屋オフは日程が合わず=名古屋オフ参加者の山木さんにAPLaCを紹介したのもヒロコさん)、一昨年も今回と同じように仕事の間を縫って新幹線でやってきて、数時間お話して、また新幹線に乗って帰っていきました。このわずかな間隙を縫って挙行する感じが、まるで野球の盗塁みたいなので、盗塁オフと僕は呼んでます。今回は盗塁オフの二回目。二塁を落としたあと、三塁にも走る、三盗。次回はホームスチールですかね。

4時に仕事を抜け出せるから5時前の新幹線に乗って、5時半前には京都につき、8時くらいの新幹線でまた名古屋に戻る。待ち合わせ場所は京都駅の新幹線改札口で、お店も京都駅構内にしました。

ヒロコさんはもともとがアート系の人で、感性がぶっ飛んでるのが好きです。最初にあったとき、こういうのが見えるといって描いたスケッチを何枚も見せてもらったことがあります。その後何年かして、漫画(アニメ)の「蟲師」をみて、あ、ヒロコさんの言ってたやつだと思ったもんです。

高校卒業して、噴出するエネルギーに衝き動かされるように石垣島に飛び、そこで数年楽しく暮らしたそうです。ただ何年もやってると、将来戦略を考えてなんか仕込んでおかなきゃなーで、戻って大学6年いって臨床心理士だったかな(あのへん資格の種類が多いのでようわからん)を取って稼働。同時に余芸のようにカメラもやってて、どっかの自治体の広報誌と契約してたそうです。これまで大学キャンパス内のカウンセラーをやってたけど、それはそれで楽しいんだけど、なんとなく実社会と隔離されている感じするので、今は企業内のカウンセラーであちこち行ってるそうです。

僕とは似た者同士というか、「同志」みたいなものです。何の同志なのか言語化しにくいけど、語弊を恐れずにいえば、自由を得たくて戦っている自由闘争の戦友みたいなものです。

と書くといきなり誤解を招くのですが、別に自由そのものが価値の源泉やゴールというわけではないですよ。ただ何かしらんけど、人というのはお節介なもので、ああしろこうしろ、あれはダメこれはダメとかやたら他人のやることにちょっかいかけてくる、あるいは無言の圧を加えてくる。多感な中・高校生時代に、それがもっとも強くあらわれるので(勉強しろとか、身なりがどうのとか)、「うるさいなあ」という思いもまた強くなる。Leave me alone(ほっといてくれよ)という思いが強くなり、それを強いて表現すれば自由であり、気持ちよくほっといてもらえるためのあれこれのイトナミを画策するのですが、それをカッコよく言えば「闘争」です。

かといって、ヒロコさんもそうだと思うけど、別に世捨て人や仙人になりたいわけでもないですよね。この現実世界は面白いし、そこから距離をおくことによって干渉を避けるというのもちょっと違う。ブランキー(という日本のバンド)が好きなのは、そこの世界観が自分と一致するからです。この現実世界に天国もあれば地獄もある、天使もいれば悪魔もいる、とても残酷で理不尽な現実は、同時にとても美しくて素晴らしい現実でもある。こっちが天国、こっちが地獄みたいに白黒はっきりわかれたテリトリーがあるわけでもなく、盤上に白黒入り乱れている囲碁のようなものだと。

ならばどうするといえば、綺麗で面白いものに触れて遊んで楽しい気分になるためには、絶えずやってくるウザい干渉や圧をはね退ける力と戦略がいるなー、と。

ヒロコさんが石垣島から大学にいってクソ真面目に勉強したのも、僕が司法試験やってたのもその一環です。また、ヒロコさんがキャンパス・カウンセラーから外にでて企業カウンセラーになったのも、実社会が面白いからでしょう。

さて、新幹線の改札で落ち合って、京都駅構内(八条口)で店選びをしました。駅周辺は普通に高いんですよねー。また駅からちょっと離れても、そんなに安くはならない。昔は安い店とかあったけど、再開発が進んで綺麗になるにつれて、そんなのも減ってきた。帰りの新幹線を考えれば、会計終わって5分で乗れるくらいの距離の方がいいよね、それで多少高くなっても一品50-100円高いくらいでしょ。(経済学でいう)機会費用(=手間暇時間にもコストがかかる)を考えたら、短い時間を有効に使うなら、ぼけっと信号待ちをしてる時間すらも惜しいし。

ヒロコさん、名古屋駅まで車できたとかいうから、ノンアル縛りになって、最初考えてたビアホールみたいなところはボツ。その代わり、関西の夏の風物詩「鱧(はも)の落とし」は未体験だというので、じゃとりあえずそれでいこうと。

そして鱧の落としを。

できればもっと大きなお皿に美しく盛ってほしかったけど、まあ贅沢は言うまい。
美味しかったし、僕も何年ぶり?もしかして何十年ぶりかも。

専門職と「そうび」
ヒロコさんも言ってたけど、心理士という専門職のメリットは確かにあると。それは給与とかステイタスではなく、「(性格や行動や身なりが)多少ヘンでもとやかく言われない」というメリットです。

同じことやってても、こっちが無職ないしペーペーだったらマウント取ってくる馬鹿がいるけど、それが鬱陶しい。そんな◯◯(カッコ、生活態度その他)だから◯◯(立派な社会人とかその種)になれないんだとか、無茶苦茶な因果関係を押し付けられたりもする(家が貧乏だから→給食費を盗んだ的な)。

でもこっちがちょっとやそっとでは取れない専門職やら資格やら持ってて、ちょっと「偉く」なってしまうと、そういうことは言われない。ゼロではないけどかなり頻度は減る。いわば、ドラクエでいうところの「そうび」であり、敵にやられてもHPがそんなに減らなくなる。「ヒロコは◯◯のよろいを手に入れた」みたいな感じ。

僕も中学時代に学校に坊主頭を強制されていた反動で、高校時代以降(今にいたるまで)長髪ですけど、最初は別に大したポリシーあってのことではないです。高校になって伸ばし始めたけど、こういう髪型にしたいという確固たるモデルもないまま、単に伸びてただけです。それに昔の床屋は、横分けか坊ちゃん刈りみたいのしかなく、さすがにダサくて嫌だったのですね。ただそれだけのことなんだけど、高校生らしく髪を切れという圧はすごくて、親に言われ、教師に言われ、またなまじ柔道部なんか入ってたから尚更です。頑として切らなかったけど、切るべき理由が納得できなかったからです。皆そうしているからとか、常識だからとか、理由になってないでしょう?なんでそんなものが理由になるのか不思議だったし、それ以上にそんなヘンテコな理屈を押し付けて当たり前だと思ってる大人達の精神構造が不思議に思えた。屁理屈とかいうけど、そっちだろ?と。
あー、うぜえなー、もーって気分がロックに向かわせ、同時に理論武装としての思想哲学に向かわせ、ルソーの「社会契約論」や、ジョン・ロックの「市民政府二論」やら読み耽ったもんです。怪我の功名で、それが後日法律をやる時のいい基礎固めにはなりました。憲法論のまんま基礎でもあるし、高度に抽象的な概念操作をするフィールドを脳内で耕すことにもなった。

だけど、いざ自分が司法試験に通って弁護士やってると、そういうことは言われなくなった。ただの一度も言われてない。むしろロック兄ちゃん然としていた方が親しみがあるとか、無料法律相談ではよく言われた。「そうび」のおかげです。

だけど、そこまで強力な装備を得るには、生半可な資格や身分ではダメで、世間の人からバケモノ扱いされるくらいでないと。ああ、面倒くさいよね、もう。

ヒロコさんもそのそうびで恩恵を受けているそうです。多少ヘンテコであっても周囲は許すし、むしろ多少ヘンテコであった方が面白がられる。また、ヘンな人も多くて、類友的に仲間も増える。
ヒロコさんも「法螺貝のお姉さん」という友達が出来たそうです。何を考えればそういう趣味になるのか、ヒロコさん、数年前に法螺貝が好きになってエンジョイしてたそうですけど、同じ業界に趣味を同じくする法螺貝フレンドがいて、当然ながら意気投合してるそうです。そのホラ友のお姉さん、最近古民家の結構な豪邸をゲットして、仕事の傍らせっせと手直しとかやってるそうです。いいよね、ヘンな友達、ヘン友世界は。

次はタコの唐揚げ

リアス式海岸

法律やろうと思ったのは(過去に何度も書いてるけど)、一番の敵=ほおっておいてくれない存在の最たるものは法律だろうと思ったからです。これが多分最後の敵、最強の敵になるだろうから、いっそのそのエキスパートになってしまえば良いと。
嫌ったり、憎んだり、敬遠してたらむしろ損だと思った。なぜなら、ここまではセーフでここからはアウトという、自由の境界線みたいなものは、かなり細かくギザギザになっている。まるでリアス式海岸のように入り組んでいる。だけど苦手意識のままでいると、実際よりもより多くのエリアをNGにしがちです。本当は全然OKなエリアも、なんかあったらイヤだから大事を取ってダメと思いがちで、それってトータルでいえば相当損してる(自由なのに自由ではないと早合点する)。ならば正確に境界線がわかるようになればいい、エキスパートになればいいと。

自分がならなくても、友達が弁護士になったらいいんだけど、当時の高校で周囲を見回してもそういう奴がいなかった。わりと進学校ではあったんだけど、目先の入試ばっかでその先の展望を語る奴が少ない。医者は友達がなりそうだからいいとしても、弁護士おらんな、しゃーない自分でやるっきゃないわ、と。

また実際に実務をやっているとカンドコロもわかるようになります。形式的にはNGなんだけど、事実上OKだということは多々ある。一般の人だって日常自分がやってる領域なら、道交法違反だろうが、税金の経費処理だろうが、「このくらいだったら、まあ大丈夫」とかなり正確にリアス式海岸をカンドコロで理解してるでしょう(それでダメならバッドラックとか)。
よくいう著作権なんかも、あれで本当に裁判になることは滅多にないです。よほど企業利益がガチに侵害されるとかプロな領域での話であり、我々一般モブキャラが問題になるのはまず無いといってもいい。僕も、交通事故・離婚・遺産分割という三大エリアは数限りなくやったけど、著作権違反はやったことがない。それに深刻な金絡みの業務関係だったら、不正競争防止法とか(これはやったことある)、特許法とか意匠権侵害とかそっちになります。著作権は、それで飯食ってる天下りJASRACの動向くらいですねー。

海外に行くわけ
ところで、日本でAPLaCみたいなことは出来なかったのかとか聞かれることありますけど、現役で弁護士やってて、それは難しいのですよ。
ヒロコさんも知らなかったようですので書いておくけど、今は多少緩和されたけど、弁護士って弁護士業務以外のことをやることを禁止されているのですよ。それか特別に許可を得るか(家業の手伝いをするとか)。また広告禁止(今は緩和されたけど、普通の弁護士は広告なんかやらない)、事務所を複数設置するのも禁止。なんだかんだガチガチなんですよね。なんでか?といえば、弁護士ってなまじ社会の裏表を知ってるし、そこそこ信用もあるしで、悪いことをやろうと思えばいくらでも出来てしまうからです。

だもんで弁護士以外になんか面白いことを思いついたとしても、手足縛られてるから出来ないのよね。もう弁護士辞めるしか無いです。

それに日本社会で弁護士やめて◯◯やってますと言ったら、それはそれで超面倒くさい。きっと不祥事を起こして懲戒で弁護士辞めさせられたんだって、まあ思いますよね。僕だってそう思うわ。やりにくくってしょうがないです。

もともと「そうび」で法律~と思ってただけなんで、そんなに法曹界に入りたいという願望はなかったですし、受かった後は流れでなんとなくやってただけです。「そうび」を得たのはいいんだけど、今度はこの鎧が重くてかなわんわけですよ。皮肉な話だけど。

だから海外です。当時の(今も)日本社会からしたら、海外にいった時点で死んだも同然ですからね。あっちの話は臨死体験というか、死後の世界の話なんで、そのインパクトの方が強く、もと弁護士~とかいうのはエピソードに過ぎなくなる。いい感じに薄まってくれるわけです。

まあ、苦労しますねー、気持ちよくほったらかしにしてもらうためには。自由とは、かくも得難く、難しい。

検証・反証・再考察
しかしですね、ムーブが極端だからといって、別に自分がそんなに他人と変わってるという気はないです。ほとんど同じじゃないかなー。ただあれこれ言われるのがイヤなんですよね。言われなくても同じことをしてたにしても、それに先立って指示されるとイヤになるという。子供の頃、これから宿題しようとしてたら、先に親から「宿題やんなさい!」と怒られると、もうやる気が無くなる気分。「今やろうと思ってたのにー」って腹が立つ。

それに常識だの世間だの言ってくる人そのものを敵視してるわけでもないですよ。これ誤解されがちなんだけど。人間ひとりの情報量は膨大で、そんな些細なことなど大した比率を占めない。ちょっと自分と違う意見を持ってたとしても、そんなの当たり前のことで、だからこいつは敵だとは思わない。むしろ◯◯派とか簡単に人を類別する発想の方がキライですね。
だって、親しい友人が自分と違うサッカーチームや球団を応援してたとしても、だからといって絶交するわけでもないでしょう。とある局面では敵になることはありますけど、それは仲の良い友達がドッジボールで敵味方に分かれてるようなもので、その場においては憎ったらしい敵方だけど、それだけの話です。

この業務用(角)が気になって、こんなもんがあるんだーって

僕と対極にあるような安定第一の公務員さんでも、別に嫌いじゃないし、てか岐阜の裁判所に居た頃は、カミさんが書記官だったこともあり、裁判所の若い子らと遊んでバンド組んだりしてたしね、いい人達ばっかで、むしろ好きです。

それはそれ、これはこれってやつです。

今でも何かを押し付けられたら狂犬のように暴れ狂うと思うけど、それはそういう人に対してではなく、もっと抽象的な思想というか、発想のパターンと言うかそういものに対してです。なんかの病原体みたいな、うーん、花粉症の人が花粉に触れると発作的に拒否反応(くしゃみとか)を起こすのに似てます。

あとですねー、他人にとやかく言われたくないんだったら、超人的な努力をしてバケモノにならなくても、もっと簡単な方法があります。
ひとつは年を取ることです。若いからあれこれいじられるだけの話で、これが40、50になると誰もいじってくれなくなりますよね。ほったらかしです。それもさみしい話(失敗しても怒られず、静かに絶望されるだけ)なんだけど、ほったらかしにはしてくれます。

あとは海外です。オーストラリアなんか最適ですけど、ほったからしにしてくれるところと、あれこれ世話焼いてくれる人情味が厚いところの配合比率が、かなりいい感じですね。困ってない人が何をしようとも、それは君の自由だよね、up to youだよねっていうけど、困ってる人は全力で助けようという。

でも今にして思うに、あそこ(思春期時代)にあそこまでウザい思いをしたのが、今の自分の基礎になってますよね。反発エネルギーが半端なく湧き出てきて、それが結果的に良かった気もします。

もっともヒロコさんの場合、ご両親もさばけていて、お母さんだったかな、絵を描くときに太陽を赤くしたら、「感じたまま描いて、表現は自由なんだから」と怒られたと。僕が勝手に補充意訳するに、太陽が赤とかいうのは、ただの社会通念、ただの記号であり、そんなものを書き写してもアートではないと、絵を描いたことにならないってことでしょう。またお父さんも、「みんなは」というと怒る人で、「みんなって誰だ、お前はどう思うんだ?」と。なんか親と子供で立場が逆転してるような感じだけど、ある意味、いい環境ですよね。英才教育というか、サラブレッドというか。

でも、まあ、これって誰でも思うことだと思いますよ。特にAPLaC界隈では、似たような思いを持ってる人は多いでしょう。ただその発現や表現は、人により、立場により、状況により違ってきてるだけの話で。

みたいな話をしているうちに時が過ぎて、盗塁王ヒロコ氏は、悠然と新幹線の車中の人となったのでした。

再び新幹線の改札にて(トップの写真とは別です)

 

 

 

 

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