久しぶりに記事紹介をします。
Childcare workers’ strike won’t win them a pay rise. Here’s why
ABC/By Lisa Bryant
先日、チャイナタウンのあたりを歩いていたら、数人の若い女性の方がはにかみ笑いを浮かべながらデモをやっておられました。あまりにも少人数だったので最初デモとは気づかず、仲間同士でお出かけかなくらいに思ってたんだけど、プラカードなどを持ってたので、ああデモかと。
なんのデモだったんだろ?とあとで調べたら、どうもチャイルドケアで働いておられる方々だったようです。全国320箇所のセンターが抗議行動を行ったと。
その記事を紹介します。考えるべき点が山盛りあるので。
デモの記事ですが、Childcare centres shut doors as workers strike over payにあります。直近1年の間にこれで3回目のアクション(デモ)だそうです。
内容は本文記事をご覧いただければと思いますが、要旨を以下に抜粋します。
・オーストラリアのチャイルドケア( & 早期教育)の労働者の賃金は度外れて低い。
・オーストラリア全労働者の平均時給は42ドル、でもチャイルドケアの場合は21ドル。ほぼ半額。(ただし、全平均を出すと年収数十億というアホみたいな連中が平均を押し上げるのであまり意味はない。しかし、それにしても安すぎる。同じ経験年数、同じCertificate3をもつMetal Fitterの場合、平均時給は39ドルである)。
・この業界の労働者の平均稼働年数は7.4年に過ぎない。一つのセンターに滞在するのはわずか3.6年。ロングデイケアのスタッフの20%は25歳以下で、40%は最低限の資格(Certificate III )しかもっていない
・しかし、この低賃金を解消する目処はない。絶望的といって良い。
なぜか?
皆、その仕事は重要であることは知っている。それがどれだけ大変なのかも知っている。だけど「誰がその給与負担増を負担すべきか?」についてはわからない。
保護者が負担すべきか?無理でしょ。既にチャイルドケアコストは高く、みな青息吐息。
政府は冷淡で、 Simon Birmingham, the Minister for Education, is not interested — he expects early education and care centres to pay their employees “as much as they can afford”. 「できるだけ頑張ってね」しか言ってない。
チャイルドケアの会社が負担すべき?最大手のG8 Educationですら収益低下で株価が大幅に下がっている。
この問題の基本構造にあるのは、
Yes, an obscene amount is made by landlords and property developers and foreign private equity firms that see the billions poured in to the sector by the government as easy money, but this money is siphoned off before centres pay their employees.
である。センターの不動産所有であり開発業者であり、政府によってイージーマネーを得るチャンスを与えられた海外の投資会社であり、そこでの利益はほとんど彼らに持っていかれてしまい、給与分には残らない。
今や世界の諸問題は、因数分解のように解いていくと、結局はこの問題に行き着く。チャイルドケアはその一つの形態にすぎない。
Jane Caro というコメンテーター(広告業界の親玉でもある)によると、「事実を知ること、それだけでは人々の行動を変えることない。人の行動を変えるのは「希望」と「恐怖」だけだ」
では政治家を「恐怖」させること=この問題を無視すると次の選挙で落ちると思わせられているか?今の所、そこまで恐怖させてはいない。だが、保護者や国民がこの問題に関心を持ち、国家的課題になるほど、政治家達の「恐怖」は増し、また働いてる人や保護者の負担も軽くなるという「希望」がある。
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私見
この問題の背景にあるのは、世界的な資産バブルであり、本来の収益性を越えて不動産が高騰している点にあるとは思う。
ただし、それが解消されるかどうか、それは資産バブルの崩壊という形でいつかは顕在化するだろうが、解消すれば良いというものでもない点が辛いところである。
なぜなら、政治家も含めオーストラリア人の殆どは持ち家があり、既得権者である。不動産バブルがあるからこそ彼らの給料も羽振りも良い。それも平均市民的には怪しくなってきているのだが(親世代は悠々自適だが子供世代は30過ぎてもまだシェアから脱られないとか)、彼らがそこそこ裕福であるからこそ、高い給料を貰える職がそこそこ生じるのだし、高い費用を払ってもチャイルドケアに子供を預けようという行動になるし、高いお金を出しても美味しいものを食べようと思う。
これが資産バブルが崩壊したら(それはオーストラリア人の意思ではなく、国際金融資本の動向=要はバクチ相場=という「神の見えざる手」によると思うが)、確かにセンターのレントなどは安くなって経営は楽になるかもしれない。しかし、同時に多くの顧客が消滅することでもある(高いお金はらって託児所に入れている余裕すらなくなる)。
結局、自分の敵は実は自分でしたというオチで、この入れ子構造がある限り、問題は一朝一夕に解決しない。ならば、せめて政治的プライオリティを高めるために動くべき(皆のお金の配分比率を変える=部活の予算の奪い合いのような)しかないという指針は、現時点では正しいのでしょう。
日本のバブルを思い出す。あの頃は不動産がアホみたいに高騰して、クソみたいなペンシルビルのワンルームが5000万とかしてた。OLさんが自分で花屋さんをやりたいとか思ってもテナントの権利金だけで3000万するから絶対無理だった。また家賃100万前後払って、花売ってもコーヒー売っても、手作りクラフト売っても、何をやっても赤字になるだけだった。だから皆過労死するほど働かされながら、長期資産(家とか)は何も持てず、将来展望も持てず、あぶく銭で散財するだけという「ヤケクソ・リッチ」と呼ばれる消費行動(アルマーニ買ったり)になった。かなり絶望的な時代だったということは、当時を知ってる連中はもっと言うべきだと思う。
景気がいいときは全ての物価が高いから何をやっても採算に合わない。
かといって、今のように不動産価格がゼロ同然(場合によってはマイナス)に近づいた状態では起業はしやすくはなったが、同時に客の数も激減してるから、やっぱり採算が合わない。
難しいよねー。
もう一点、皆が大事だと思ってる仕事、尊敬もされニーズもめちゃくちゃある仕事なのだけど、ニーズがありすぎるから貧困化するという、経済原則の逆になってるパターンが先進国では多いし、これからもそうなると思う。
保育士、介護職、高齢者医療なんでもそうだが、ニーズはある。だけど低賃金。
なぜそうなるかというと、本来的に労働集約型産業(人手がめちゃくちゃかかる)であり、収益構造は良くない。もともとそんなに儲かる構造をしていない。電話一本で右から左に不動産を動かして数千万利ざやを稼ぐような職種ではなく、いちいち現場にいって寝かしたり、風呂にいれたりという手作業メイン。だから膨大の人手がいるし、人件費も膨大だし、そのわりには草むしりのような低スキルでは出来ず高度な専門知識もいる。
これで儲けようと思ったら、ユーザーの利用料をとてつもなく高くするしかないし、実際に入居費用が億を超える施設もある。普通の市民には無理。だから国が補助をするが、国も積年の無理がたたって金が無い。だからニーズが多くなればなるほど=国庫負担が増大し=それに耐えきれないから一人あたりの予算削減するしかなく=結果として貧困化する。
ずっと考えているんだけど、子供の世話、親の世話、そういった家族ベースの作業というのは、本来資本主義になじまないんだろうなーと。つまりそんなに儲かる構造になってない。
昔は大家族だったから、金払って雇うよりも家族内部の労働力で処理できた(子守雇ったりはしたけど)。ところが生活厳しくなって、働ける奴は総出で家を出て稼がないとならないとなると、留守中の家族(子供老人)の世話を誰かに頼まないとならずコストがかかる。場合によっては働いて稼ぐ分よりも、ケア代の方がかさんだりして何やってんだかみたいな話もある。
もともと資本主義になじまない=儲からない構造を持っているから、国が面倒をみるしかなくなり(福祉政策)、ということは国庫がヤバくなったら波及的にヤバくなるということであるし、もうヤバくなってる。
もともと国がやってることって、本来資本主義ルールではこなせない領域であり、だから資本主義の「補完機能」としての国家が出てくる。でも、ここで国はアテにならないとして除外すると、「資本主義では解決しない」だけが残り、換言すれば「金の問題にしたら解決しない」ということでもある。金以外の方法で解決すべきになる。
それって出来るんじゃないの?
ここでほしいのは人的資源=人手あり、それらを金銭給付以外のなんらかの「対価」をもって贖うことは出来るか?という問題に変換できる。この形になれば、解はあるよ。
だって人は銭金だけで動いているわけではないもん。自分自身の行動を見ててもそうだ。「儲かるからやっている」という行動は、意外と少ない。儲かるからやってる筈の仕事でさえも、「金さえ入ればそれでいいんだ」と割り切ってるやってるわけでもない。
では、人はなんで動くのか?そう、恐怖と希望なのでしょう。
でもそう抽象的に言っても始まらないわけで、どういう具体的な希望が与えられるかですよね。「希望」を具体化せよ、というタスクになる。
ここから先は論題からズレるので、ここまで。