次回オンラインオフの広報とおまけエッセイ(自由とは途方に暮れること)

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次回のオンラインオフは、1月21日、つまり今週の土曜日の夜です。日本時間8時。8時だよ、全員集合です。久しぶりに夜。ご参加を。
場所のURLは、前回と同じくここ
https://app.gather.town/app/Kw4LnygcyGDJZG8w/mori-room1

これで終わってしまったらアレなんで、にぎやかしに写真を入れました。本文とは関係ないけど、さきの年末の閑散とした時期にいったBar Italia。夏の年末。

それでもにぎやかしが足りないなと思ったので、エッセイを書きました。こんなんなんぼでも書けるので(オフでもなんでも喋れるし)。
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ところで、よく語られる話で、コップの中にジュースが半分になった時点で、 「あと半分しかない」と思うか、「まだ半分もある」と思うかでベクトルが変わってくると。

あるいは、靴のセールスマンが、誰も靴を履いてない(履くという習慣のない)南国やら未開の国にやってきて、「誰も靴を掃いてないから売れるわけがない、ダメだ」と思うか、「誰も靴を履いてないから、めちゃくちゃ有望な市場だ」と思うか、です。

ネガに思うか、ポジに受け取るかの差であり、聞いたことがあるでしょう。聞いたことがあるにせよ、これを現場の実践つかえるかとなると、話はまた別。

今の時代、そしてこれから、「これさえやっておけば大丈夫」というものがどんどん崩壊しています。高級官僚のエリートになって上級国民~とかいうのも今は昔で、どんどん受験者が減って、また新入官僚がどんどん途中で辞めていって、去年だったか、ついにキャリア職の「中途採用」をやるようになったと。一昔前には考えられないですよー。でもわかるわー。あんなに頑張ってやっても、クソ政治家や利権団体の汚職の後始末をやらされ、文書やら統計やら捏造させられ、バレたら自分にせいにされるとか、それが苦しくて自殺するしかないとか、やってらんないでしょう。それに中途半端で無意味な失政の矢面に立たされて罵倒されるのは官僚の事務方ですからねー。国際政治の圧で長年育ててきた日本の農業を破壊するような種子法やら種苗法やらを押し付けられ、180度違う内容を農家に通告して罵倒を浴びて悔しい思いをするのは農水産省の人たちだもん。やってらんねーよ、てなもんだと思います。

いっときの就活エリート村だった、テレビやマスコミ業界も真剣にヤバい、てかまだ潰れずにいるのが不思議なくらいだけど、将来性あるか?っていえば、無いですよね。あと15年もすれば新聞は消滅するとか言われているし。電通だって、今から入りたいって思う人がどれだけいるのか?

参考
1年で200万部減「新聞離れ」は止まらず 「一般紙」は15年後に消える勢い

僕の古巣の法曹界も同じで、司法試験の受験者数が激減している。直近(令和4年)の受験者数3,082人ですもんね。7年前には6889人だからわずか7年で半減以上。てか、僕が受けた80年代は受験者数2.5万くらいいたのよね。それに合格者460人だったから合格率2%切ってた。今は50%くらい受かる。超楽勝になってるんだけど人気もガタ落ち。まあ、わかるけどね。その昔はそれだけの難関だったから価値もあったしメシも食えたし、今はその逆。
(※記憶だけで言うのも何なので調べてみたら、僕が論文通った昭和59年度は受験者2.4万で論文合格者459人だった。が、過去最高は53年の29,390人受験して最終合格485人。ざっと3万人受けて500人受かるから成功率1.67%、この数字を前提にして54年に法学部に入ったから、か~なりのギャンブラーだったのね、今にして思うと。
https://www.moj.go.jp/content/000054973.pdf

ということで、「これさえやっておけば大丈夫」というのがわからなくなっている。「わからない」というよりも、「無くなっている」といった方がいいかもしれない。

じゃあどうするの?ですけど、ここで冒頭の話になるわけですよ。
まだ半分残ってると思うか、半分しかないと思うかの応用です。「応用」ですからそのまんまではない。

これさえやっておけば大丈夫というのが無いということは、「何をやってもいい」ってことでしょ?めちゃくちゃ自由でイイコトではないか。僕はそう思うけどなー。そう思えないというのは、ちょっとネガ過ぎるんじゃないか。

それに「これさえやっておけば大丈夫」というのがある方がイヤでしょう?だって、それが性に合ってるならいいけど、合ってないなら地獄ですよー。だってそれから外れたらもう死ぬしか無い。まあ死ぬことはないせよ、あらゆる点でアゲインストですもんね。
もともと僕がやってたロックにせよ、あまりにも難しすぎて現実味がなくギャンブラーと同一視されてた当時の司法試験にせよ、そして海外移住にせよ、全然「アウト」でしたからねー。もうこれをやる以上、一般のカタギの人達とは違った人生を歩まないといけないよ、半分極道になるような覚悟もいったのですよ。いざなってしまったら、案外気持ちよくて、居心地いいんだけど(笑)。

それに「これさえ~」って大体において詰まんないんですよねー。要はアレでしょ、真面目に勉強して、点取って、上司の言う事聞いて、周囲に気兼ねしまくって、自分を殺して、皆さんに可愛がってもらって、どうのこうのってやつでしょ。やりたいですか、それ?なんかそれって、一回死んでしまえば、もう死ぬことがないから安心だよって言われてるのと同じような話じゃないのか。

なので「これさえ~教」が流行らなくなったのは、むしろ朗報だと思うのですよ。

しっかしですね、昭和の時代のように毎日家庭で理不尽嵐が巻きおこって、ドラマの寺内貫太郎一家とか(あんま見てなかったけど)、毎回必ずお茶の間で親子喧嘩が始まり、取っ組み合いになったりとか、そういう環境は、今の基準でいえば非常によくないですよ。頭ごなしの理不尽丸出しで、「つべこべいうな」「女は黙ってろ」「男だったら文句言うな」(要はジェンダー理由の反論封じ)で、~ハラでいえば、毎日がハラの嵐です。だけど、逆に言えば、そこまで自己を否定され、無茶を押し付けられてたから「こそ」、何をやりたいかが見えやすくなったというのはあります。

人間面白いもんで、やるなと言われるとやりたくなる。
小さな子供に、「これは絶対見てはいけないよ」と言うと、まあ必ず見ますよね(笑)。それと同じ。禁止というのは、実際には奨励に近い部分がある。
禁止圧を加えると、ボイルシャルルの法則のように、エネルギーが凝縮していって爆発的になっていく。適当にガス抜きされると、しゅわ~とやる気が逃げて実行には至らないんだけど、絶対ダメ!という厳重な圧だと、なにがなんでも~!とやる気もまた増大する。

その証拠に(なるのかどうかわからんが)、エロがあります。昔の日本はエロ禁圧で、ヘアが見えたらダメとか、いや芸術性があるからいいんだとか裁判にすらなってました。それがエロ解禁裏歴史でいえば、ビニ本が出て、ヘアヌードが一般誌に出て、そしてインターネットでもう規制なんかあってなきが如しになってしまって、どうなったか?です。当局や良識者が恐れていたように、皆が朝から晩までエロ狂いになって、社会はエロ地獄化したのか?といえば、結果は真逆で「草食化」でしょう?まあ、そこに因果関係があるのかどうかはわからんけど、禁じられているからこそ価値があったというのは、当時を知るものとしては言えると思いますよ。いつでもどこでもいくらでも~ってなったら、そんなに価値はない。すぐに「お腹いっぱい」になってしまう。もともとがその程度のものだったんでしょう。

そういう意味では、「これさえ」という塗り絵の下図みたいなものが薄らぐ一方、絶対ダメ!という圧もなくなってしまい、全体の海図は見えないわ、エンジンのかかりは悪いわで、精神的に非常に宙ぶらりんになってる気はします。

なにをやってもいいっていっても、何でも出来てしまうなら、圧がないからエネルギーが貯まらないのですよね。「まあ、ちょっといいよね」くらいのほのぼの好感度くらいだったら、本宮ひろ志の漫画のような「うおおおお~!!」という感情の奔流は起きない。定年退職したおっさんが、盆栽でもやってみるか程度のパトスだったら、人生の指針にはなりにくい。

でも、それを嘆いているなら、贅沢な悩みでしょう?
もともと「自由」ってそういうものだと思います。奴隷が解放されたら、それまでとの比較で爆発的な自由の歓喜を得られると思うけど、でも二日目になったら、これからどうしよう?と途方に暮れるもんです。実際、南北戦争で奴隷が解放されましたけど、大多数はだからといってやることがないので、もとの牧場などの職場で働いてたそうです(労働条件は改善されただろうが)。

自由とは途方にくれることであり、まずそれが普通。
真っ白な画用紙一枚渡されて、自由に描けと言われるのと同じで、何を描いたらいいのかわからんもんです。でも、だからといって、お題を指定されるのもイヤでしょ?例えば、「岸田首相を英雄として称賛する絵を描け」とか指示されたら、描きたくないでしょう。じゃあ何なら描くの?です。

この話はどんどん続くんだけど、相談事とか、フリートークでは、よくそんな話をしますねー。

ここのIced Mocca
チョコレートジェラートにエスプレッソ原液とミルクを入れたもの。旨し。

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